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名曲−11. 津軽平野
太宰治が生まれた北津軽郡金木町は、もう一人有名人を輩出している。 吉幾三 である。吉幾三の歌で「津軽」が歌詞に出てくるのは「津軽平野」だが、「雪國」も津軽をモチーフにしていると考えられる。
津軽平野
吉 幾三 作詞/作曲
津軽平野に 雪降る頃はよ
親父ひとりで 出稼ぎ支度
春にゃかならず 親父は帰る
みやげいっぱい ぶらさげてよ
淋しくなるけど 馴れたや親父
十三みなとは 西風強くて
夢もしばれる 吹雪の夜更け
ふるなふるなよ 津軽の雪よ
春が今年も 遅くなるよ
ストーブ列車よ 逢いたや親父
山の雪どけ 花咲く頃はよ
かあちゃんやけによ そわそわするね
いつもじょんがら 大きな声で
親父うたって 汽車から降りる
お岩木山よ 見えたか親父
吉幾三も苦労人である。1972(昭和47)年にいったん山岡英二という芸名でデビューするもヒットせず、下積みが続く。1977(昭和52)年に「俺はぜったいプレスリー」がヒットするも、二匹目のドジョウを狙った「俺はぜったいスーパースター」がヒットせず、再度下積み生活に入る。このまま一発屋として終わるのかと思いきや、1984(昭和59」)年に「俺ら東京さ行ぐだ」がヒット。この頃、ザ・ベストテンなどには面白いおっさんとして出演し、河合奈保子ファンクラブに入っていることなどをカミングアウトして笑いを取っていた。
正統派演歌として初めて売れたのが、1987(昭和62)年の「雪國」であろう。この歌は中畑清にプレゼントするはずだったのだが、中畑が暗い歌だと思って断り、吉幾三が歌ったらヒットした、という都市伝説を聞いたことがあるが、真偽の程は不明である。その後も「海峡」や「酒よ」などヒット曲が続いた。
金木町には「イクゾーハウス」という吉幾三が経営しているレストランが有るそうだが、残念ながら行ったことは無い。
太宰は生まれ故郷の金木町をこのように評している。
金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位置し、人口五、六千人の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡白であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町ということになっているようである。
JR五能線五所川原駅で津軽鉄道に乗り換え、20分ほど電車に揺られると金木駅に着く。津軽鉄道は、冬はストーブ列車、夏は風鈴列車、秋は鈴虫列車と、特色ある列車を運行している。僕は2回津軽鉄道に乗ったことがあるのだが、惜しくも2回ともこれらの列車を外してしまった。
金木駅のホームからの眺望
金木駅から歩いて10分ほどのところに、斜陽館がある。93年3月は旅館として経営されていたので、一泊することが出来た。大広間で他の宿泊客と食事を取り、女中部屋に泊まった記憶がある。当時、太宰の部屋は半年前に予約しなければ泊まれないと言われていた。
泊まった部屋にはノートが備え付けられており、宿泊客が太宰への思いを書き綴っていた。斜陽館の宿泊客は、そのほとんどの方が太宰ファンである。「遂に夢がかないました。」や「泊まることが出来て感激です。」というような文章でノートは埋まっている。僕も熱気にあおられて、A4ノートの1ページ分の文章を書いたはずなのだが、内容は記憶していない。2回目に行った98年7月のときに昔のノートがあるか係員に尋ねてみたのだが、不明とのことであった。
斜陽館は今では博物館になっており、宿泊不可である。
斜陽館
金木駅から一駅、歩いて30分ほどで芦野公園に着く。かなり大きな公園なので、一周するのは骨が折れる。
また、公園のそばに太宰治の資料館がある。この中に、太宰治が佐藤春夫宛てに出した手紙が展示されていた。「芥川賞を僕に下さい。お願いします。芥川賞をいただければ、あと何年か生きられそうです。」という内容だったと記憶している。かなり長い手紙だったが、僕はこれほど女々しい手紙を読んだことがない。貴重な資料かもしれないが、太宰の名誉のためにも展示は控えるべきではないか、と思ったものだ。ある意味、ラブレターより恥ずかしい。
芦野公園の太宰治文学碑
今回(2003年8月)は残念ながら、金木町に立ち寄る時間が無かった。次回は上記の特色ある列車に乗って、金木町に行きたいと思っている。
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