このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

サンティアゴ・デ・コンポステーラの歴史④

中世以降

 時と共に町の有力市民たちは自治を求めはじめ、
フランスのドン・ベレンゲル大司教の即位にたいし反乱、1932年の首領の暗殺まで騒乱が続いた。
14世紀から15世紀にかけては高位聖職者間の争いが頻発、
最後のものとしては大司教フォンセカに敗れ、2年間投獄された聖職者ベルナル・ヤニェスとの争いが知られる。
カトリック両王(※9)はここに慈善病院を建て、聴訴院(現在の最高裁判所に相当)をおいた。
フォンセカ家の3人はヒューマニストであり、建築家でもありスペイン・ルネサンスの第一人者達であった。
彼らが機能させ始めた大学(※10)は今なお健在であり、この町を非常にアカデミツクなものとしている。

 その後、長い年月の後、町はきらびやかなバロツク様式におおわれ、宗教上の重要な地位を保ちつづけた。
しかし、ナポレオンの侵入時代より、急激に世俗化が進み、修道院は荒廃、
多くの貴重な図書は紛失してしまった。その後の停滞は現代の観光化が進むまで続くこととなった。


脚注

※9 15世紀末、イベリア半島はキリスト教のアラゴン王国・カスティーリャ王国と
イスラム教徒の支配領土とに3分割されていたが、
アラゴンのフェルナンド、カスティーリャのイザベルが結婚し2国が連合。
この両者がキリスリト教を旗印に力を合わせ、イスラム王国を放逐、スペイン統一王国を形成する。
両者が初代国王となり、カトリツク両王と呼ばれている。
ちなみイザベル女王はコロンブスの新大陸航海の資金援助を行ない、
後のスペイン大帝国の経済的土台を築くこととなる。
※10 当時の大学は人の集まりであり、制度・建物は後に整備された?。

参考 アナヤ・スペインガイド

世界遺産サンティアゴ・デ・コンポステーラ

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