松尾芭蕉ていう俳句ば作る爺さんの、昔おんなったとば知っとろう。その爺さんがクサ、こげなことは云うとんなっタイ。
「心ここに在らざれば視れども見えず」 博多弁に翻訳すれば、「ぼけーっと見とったら、目は向けとっても、何ぁーも見えん。うわの空じゃあ、感じることもでけん」
「考えごとしよりましたケン、気が付くとの遅れて、歩行者ばハネました」ていうととはちょっと違うとよ。「その気で見とかな、大事なこたあ見えてこん」ていうこっタイ。 短歌のことは知らんバッテン、俳句やら川柳には「見つけ」ていうことのあってクサ、作品になるネタ(ネタて云えば品がないけど、そうそうテーマやね)ば、どう見つけるか(感じるか)が大事ていう。
例えば川柳で云うと
こう向いて 泳いだらしい かつお節 しかを
あの、干しあげられた鰹節ば見て、あーあ今は、こうなってしもうとるけど
生きとう時は、こっち向いて泳ぎよったっちゃねぇ・・・て感じる。これが「見つけ」
下手バッテン駅長の作品、
救急車ほど 慌てない霊柩車
まだなんとか、なりそうなうちは、ピーポーピーポーて慌てるバッテン
しまいた(博多弁で死んだ)あとは、悠々と走りよる。
当たり前ちゃあ、当たり前バッテン、なんか悲しゅうて可笑しか・・・て感じる「見つけ」 写真も詩歌とおんなじで、森羅万象・人の暮らしの中から、美しか現象やら、喜怒哀楽の場面ば、切り取ってくるとやケン、切り取ってくるものば「見つけ」きらな作品はでけん。
ばぁちゃんが並んでお弁当。面白い!! と思うか通り過ぎるか。 水の模様に気がつくか、どうか。
どげん料理するかは二の次、三の次。
テーマば「見つけ」るためには、芭蕉の爺さんが云んしゃったごと、その気になって「見よらな」いかんていうこっタイ。
「みる」ていうことにはレベルが三つあってクサ
見る・・・・・・ただ見とる
観る・・・・・・観察する(科学的に)
視る・・・・・・心に感じる
(診ると看るは病人のことやケン別)
「写真に撮るもんのなか」ちゅうて、嘆きよるあなた
写真ば撮ろうとおもうたら、いつも心の目(心眼)で、ものを視る習慣ばつけんしゃい。
「あーこれよかね」「あーこれ撮りたかねえ」ていうシーン(場面)が、じつは身の回りにゴロゴロしとって、それば見過ごしとうことに気がつきますバイ
ほら、景色やら庭の花やらが「いま撮って、一番いい時よ、いま撮って」て云いよりまっしょうが。
カンナの花が額縁になって、その向こうに線路。いい。通りがかりに見つけて翌朝、列車を待った。
POINT その気で見れば、写真の題材は、いくらでも回りに転がっとる。
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