このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

青の洞門
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場所・大分県中津市
      本耶馬渓町


 耶馬渓ていえば、青の洞門ていうほど有名タイ。

 その青の洞門は、山国川にそそり立つ競秀峰(きょうしゅうほう)の裾に掘られたトンネル。

 今から250年ほども前の話。
 諸国遍歴の旅の途中、この地ば訪れた禅海和尚は「鎖渡し」て呼ばれとった難所で、命ば落とす人馬の多かとばみて、村人のために安全な道ば造ろうと決意しなった。 

 岩壁にノミばふるう禅海ば、初めはあざ笑うごと見とった村人達も 、いつのまにか禅海和尚ば手伝うごとなり、30年もの長い歳月ばかけて完成したていう。

 ノミと槌だけで掘り抜いた墜道の長さはなんと約342m。

  今もなお健在で、昔の素掘りのトンネルも一部残っとる。

 (写真はその後掘られた自動車用のトンネル)
 

 菊池寛の小説「恩讐の彼方に」でも有名になった。

 人ば殺めてしもうた償いに、難所やったこの地にトンネルば掘ろうと決 意した禅海(小説では了海)が、ノミとツチだけで30年かけて完成させたていう話。

 読めば涙のでるごたる話バッテン、禅海はその後、このトンネルで通行料ば取り、その“あがり”で優雅に暮らしたらしか。

 J Hの元祖みたいなあくどか話でガッカリする。

 小説は別として、史実は貞享3年(1686)中津藩主・小笠原長胤(ながたね)による荒瀬井路の水利工事が発端にある。

 この難工事は、多くの労力と費用ば費やし、元禄2年(1689)通水までこぎつける。

 この堰によって3000戸の農家・1200町歩の水田が恩恵ば受けるごとなった。

 

 ところがこの長胤さんがお家騒動で失脚しなったもんやケン、工事が途中で止まってしまったいう訳タイ。

 放置された山国川の青(地名)付近の河原は、水没したまま交通の難所となっとったとゲナ。

 ここで享保19年、禅海上人が登場することになるとタイ。

 大分自動車道の日田ICから、国道212号線ば北上、大石峠ば越えて山国町に入る。

 「道の駅やまくに」から17kmで青の洞門駐車場に着く。

 手前の信号ば右折すれば、耶馬トピア。羅漢寺へ行ける。

 洞門の北側出口に、禅海和尚の記念碑が立ち、そばの銀杏が晩秋に映える。

 さらに100mほど北、国道212号線ば渡ると、耶馬渓橋(別名オランダ橋)がある。

取材日 2006.04.03/2007.11.14
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