このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

模様入りの高欄が珍しか           「鹿児島県」の目次へ
九州建設共済会推薦

 完成は昭和7年(1932)。当時はこれが国道10号線やった。
 国道いうても、まぁーだ交通量が少なかったケン、片側1車線あれば十分やったとやろう。巾が5.7mしかなか。

 姶良町と加治木町の間の別府川に架かる。長さは150mで、川の流れの方向に二連アーチの橋脚が10本でRC桁ば支えとる。

 RCいうたら、鉄筋コンクリートの工法でReinforced Concrete(補強されたコンクリート)のこと。

 変わっとるとは、橋桁がアーチで中抜きになっとることと、文様入りの閉塞高欄(欄干の模様がふさがれとる)こと。

 丸に十の字なら、おはらはー桜島。ヨイヨイ。でクサ、薩摩藩の紋章バッテン、これはちょつと違う。

 姶良町の郷土歴史館に、メールで「なんか知んしゃれんね、分かっとったら教えちゃんしゃい」て、問い合わせたバッテン、知らんとやろう「ウンともスンとも」云うてこん。
 

 このあたりは昔から守護職やつた島津氏が治めとった。
 島津家久は姶良の建昌城ば本拠にしょうとしたとバッテン、水の便が悪かったケン、鹿児島に城ば造ったていう。

 家久は支配の制度として「外城制」ば採用し、藩内ば百の区域に分けて外城(現在の市町村に相当)とした。のちに郷と呼ばれるようになる。

 江戸時代中頃の姶良町は、帖佐、重富、山田の3つの郷に分かれ、帖佐には地頭仮屋(役所)が置かれとったゲナ。

 これと紋となんかあるっちゃろうか。分からん。

撮影中に地元のおばしゃんが日傘ば差さして通んなった。時代が昭和初期に戻った。

 姶良町(あいらちょう)は、鹿児島県の真ん中にある。鹿児島県の町ん中で1番人口が多か。九州の町でも2番目に多か。鹿児島市に隣接しとおケン、近年はベッドタウンとして発展しとる。

 明治22年(1889)、町村制度施行で姶良郡帖佐村・重富村・山田村が発足。
昭和30年(1955)、これが対等合併して姶良町になった。中心は帖佐で日豊線の駅も帖佐駅。

 なんで姶良かは調べたバッテン、分からん。
 もともと隼人はアイヌ人やったていう説があって、アイヌ語のアイラが安羅・姶良になったていう。

 およそ2万5千年ほど前の旧石器時代、錦江湾の北部に姶良火山ていうとがあって、この火山がチョー巨大噴火ば起こした。噴火による
噴出物で鹿児島地方は10m以上の地層がでけたゲナ。こればシラス台地ていう。

 このときの噴出物は偏西風にのって全国に降り積もり、中国地方で20cm、関東でも10cm、北海道でも5mmていうケン、おっそろしか噴火やったとやろう。

 姶良火山はそんときの大噴火でクサ、陥没して姶良カルデラがでけた。今の錦江湾がそれたい。カルデラの南縁に1万年ほど前でけたとが桜島ていう訳よ。阿蘇といっしょで二重火山タイ。

 姶良火山やった上にそっくり乗っかかっとるとケン、姶良郡で姶良町やろう。

 姶良町のもんに云わせれば「姶良の女は愛らしか」ケン姶良ゲナ。こいとけ。
 字の通り、女と合うて良かケン、姶良ていう説もある。文化遺産とは関係なかケン、もうやめとこう。

 場所・鹿児島県姶良町。鹿児島市から国道10号線ば錦江湾に沿うて走る。磯庭園から18kmで帖佐駅前ば通過。次の信号で旧道へ左折するとすぐ。                               取材日 2007.8.10

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