このあたりは昔から守護職やつた島津氏が治めとった。
島津家久は姶良の建昌城ば本拠にしょうとしたとバッテン、水の便が悪かったケン、鹿児島に城ば造ったていう。
家久は支配の制度として「外城制」ば採用し、藩内ば百の区域に分けて外城(現在の市町村に相当)とした。のちに郷と呼ばれるようになる。
江戸時代中頃の姶良町は、帖佐、重富、山田の3つの郷に分かれ、帖佐には地頭仮屋(役所)が置かれとったゲナ。
これと紋となんかあるっちゃろうか。分からん。
撮影中に地元のおばしゃんが日傘ば差さして通んなった。時代が昭和初期に戻った。
姶良町(あいらちょう)は、鹿児島県の真ん中にある。鹿児島県の町ん中で1番人口が多か。九州の町でも2番目に多か。鹿児島市に隣接しとおケン、近年はベッドタウンとして発展しとる。
明治22年(1889)、町村制度施行で姶良郡帖佐村・重富村・山田村が発足。昭和30年(1955)、これが対等合併して姶良町になった。中心は帖佐で日豊線の駅も帖佐駅。
なんで姶良かは調べたバッテン、分からん。
もともと隼人はアイヌ人やったていう説があって、アイヌ語のアイラが安羅・姶良になったていう。
およそ2万5千年ほど前の旧石器時代、錦江湾の北部に姶良火山ていうとがあって、この火山がチョー巨大噴火ば起こした。噴火による噴出物で鹿児島地方は10m以上の地層がでけたゲナ。こればシラス台地ていう。
このときの噴出物は偏西風にのって全国に降り積もり、中国地方で20cm、関東でも10cm、北海道でも5mmていうケン、おっそろしか噴火やったとやろう。
姶良火山はそんときの大噴火でクサ、陥没して姶良カルデラがでけた。今の錦江湾がそれたい。カルデラの南縁に1万年ほど前でけたとが桜島ていう訳よ。阿蘇といっしょで二重火山タイ。
姶良火山やった上にそっくり乗っかかっとるとケン、姶良郡で姶良町やろう。
姶良町のもんに云わせれば「姶良の女は愛らしか」ケン姶良ゲナ。こいとけ。
字の通り、女と合うて良かケン、姶良ていう説もある。文化遺産とは関係なかケン、もうやめとこう。