このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
藩主が長崎の眼鏡橋は見て作ろうて言いだした 「福岡県」の目次へ |
県指定有形文化財 |
一日中混雑しとる関門海峡の入り口ば守っとる「部崎灯台」 |
秋月眼鏡橋(あきづきめがねばし)は朝倉市秋月の国道322号線そばにある。古処山から流れ出してきた野鳥川に架かっとる。 この頃秋月藩は本家の福岡藩がやっとった長崎警備ば、代理として務めとった。
再開された工事は慎重ば期して行われ、やっと5年後に完成した。 完成時の渡り初め式には9代藩主の黒田長韶(ながつぐ)や藩の重臣たちも出席し大変な賑わいやったていう。 昭和に入ってからは自動車ば通すため、橋の上ばコンクリートで舗装したバッテン、交通量が増えたもんやケン、橋ば保護するため橋ば迂回する形で道路ば付け替えた。 そして、平成18年(2006)から、朝倉市と福岡県による復元の工事が行なわれ、コンクリートば剥いで架橋当時の姿に戻った。 この橋ば渡ると、黒田五十二万石の支藩として栄えた秋月藩五万石の城下町の町並みが続く。 この橋の優雅さは筑前の小京都″と呼ぶにふさわしい歴史と、静寂さを兼ね備えた秋月の町並みのシンボルになっとる。 2003年までは車の通行がOKやったバッテン、今は禁止。 ←↓ 秋月眼鏡橋から見た野鳥川とその周辺の景色。 |
秋月の乱(あきづきのらん)は、1876年(明治9年)に福岡県秋月(現・福岡県朝倉市秋月)で起こった明治政府に対する士族反乱のひとつ。 同じ年の10月に熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、旧秋月藩の士族宮崎車之助、磯淳、戸原安浦、磯平八、戸波半九郎、宮崎哲之助、土岐清、益田静方、今村百八郎ら約400名によって起こされた反乱。 神風連の乱から3日後の10月27日、今村ば隊長とする「秋月党」が挙兵、まず明元寺で説得にあたった福岡県警察官穂波半太郎ば殺害。これは日本て初めての警察官の殉職となる。 旧秋月藩の士族はあらかじめ旧豊津藩の士族、杉生十郎らと同時決起ば約束しとったケン、このあと豊津へと向かい、10月29日に到着する。 しかしこんとき旧豊津藩士族たちは決起しない方針ば固め、杉生らは監禁されており、談判中、寝返った豊津側の連絡ば受けて到着した乃木希典(のぎ まれすけ)率いる小倉鎮台が秋月党ば攻撃。 秋月側は死者17名ば出し江川村栗河内へ退却、10月31日に秋月党は解散し、磯、宮崎、土岐ら七人は自刃してしもうた。 秋月の乱とは ? |
場所・福岡県朝倉市長谷山400。大宰府ICから九州自動車道・大分自動車道経由して甘木ICで下りる。27km、20分でETC620円。下りたら左折して200mの「東田」信号ば国道322号線へ右折。甘木市内ば抜けて北へ約8Km「長谷山」信号から200m走り、川沿いに右折300mで小道にまた右折すると40mに橋。 取材日 2014.11.21 |
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