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藩主が長崎の眼鏡橋は見て作ろうて言いだした       「福岡県」の目次へ
  県指定有形文化財

一日中混雑しとる関門海峡の入り口ば守っとる「部崎灯台」

 秋月眼鏡橋(あきづきめがねばし)は朝倉市秋月の国道322号線そばにある。古処山から流れ出してきた野鳥川に架かっとる。

 洪水のたびに崩れよった板橋に代わり、堅牢な永久橋として、文化7年(1810)に長崎の石工ば雇い入れ作らせたもの。そやケン、初めは長崎橋て呼ばれとった。

 この頃秋月藩は本家の福岡藩がやっとった長崎警備ば、代理として務めとった。
 それで長崎に行った
8代藩主の黒田長舒(くろだ ながのぶ)が、長崎の眼鏡橋ば見て、秋月にも同様な橋ば架けとうなったもんやケン、家老・宮崎織部(みやざき おりべ)ば工事の総責任者として文化2年(1805)架橋工事ば開始した。

 しかし、この石橋ば造るとには大変な苦労があったていう。
 長崎から呼び寄せた石工たちにより架橋工事は2年近くも費やして行われたとバッテン、なしか橋は完成直前に崩壊してしもうた。


 原因は分からんバッテン、この事件が、当時病床にあった長舒ばがっかりさせて、死期ば早めたていわれとる

 このことは秋月藩内でも問題となり、工事差し止めの意見もあったけど、長崎石工たちの工事再開  の要望、そして織部の強い主張もあって再開されることになった。

 再開された工事は慎重ば期して行われ、やっと5年後に完成した。 完成時の渡り初め式には9代藩主の黒田長韶(ながつぐ)や藩の重臣たちも出席し大変な賑わいやったていう。

 橋の長さは17.9m、幅は4.6m、最大支間14.65m。日本でただひとつ、御影石ででけた石橋として知られとる。
 御影石は墓石などに使われる石で、石の中でも高級の部類に入る。 秋月城下町の入口にあった橋やケン、りっぱな石橋ば造ろうとした当時の入れ込みが感じられる。

 架橋以降、200年あまりの間一度も流失することなく、完成待たずに死んだ8代藩主も、あの世で喜んどんなった。

 昭和に入ってからは自動車ば通すため、橋の上ばコンクリートで舗装したバッテン、交通量が増えたもんやケン、橋ば保護するため橋ば迂回する形で道路ば付け替えた。

 そして、平成18年(2006)から、朝倉市と福岡県による復元の工事が行なわれ、コンクリートば剥いで架橋当時の姿に戻った。

 
この橋ば渡ると、黒田五十二万石の支藩として栄えた秋月藩五万石の城下町の町並みが続く。

 この橋の優雅さは筑前の小京都″と呼ぶにふさわしい歴史と、静寂さを兼ね備えた秋月の町並みのシンボルになっとる。

 2003年までは車の通行がOKやったバッテン、今は禁止。

←↓ 秋月眼鏡橋から見た野鳥川とその周辺の景色。 

 秋月の乱(あきづきのらん)は、1876年(明治9年)に福岡県秋月(現・福岡県朝倉市秋月)で起こった明治政府に対する士族反乱のひとつ。

 同じ年の10月に熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、旧秋月藩の士族宮崎車之助、磯淳、戸原安浦、磯平八、戸波半九郎、宮崎哲之助、土岐清、益田静方、今村百八郎ら約400名によって起こされた反乱。

 神風連の乱から3日後の10月27日、今村ば隊長とする「秋月党」が挙兵、まず明元寺で説得にあたった福岡県警察官穂波半太郎ば殺害。これは日本て初めての警察官の殉職となる。

 
旧秋月藩の士族はあらかじめ旧豊津藩の士族、杉生十郎らと同時決起ば約束しとったケン、このあと豊津へと向かい、10月29日に到着する。

 しかしこんとき旧豊津藩士族たちは決起しない方針ば固め、杉生らは監禁されており、談判中、寝返った豊津側の連絡ば受けて到着した乃木希典(のぎ まれすけ)率いる小倉鎮台が秋月党ば攻撃。

 秋月側は死者17名ば出し江川村栗河内へ退却、10月31日に秋月党は解散し、磯、宮崎、土岐ら七人は自刃してしもうた。

 それでも抗戦派の今村はほか26名とともに秋月へ戻り、秋月小学校に置かれとった秋月党討伐本部ば襲撃。県高官2名ば殺害、反乱に加わった士族ば拘留しとった酒屋倉庫ば焼き払うて逃亡したバッテン、11月24日に逮捕された。

 12月3日に福岡臨時裁判所で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた今村と益田は即日斬首。約150名に懲役、除族などの懲罰が下された。

 現在、秋月にある秋月郷土資料館に、幹部直筆の辞世の句などが展示されとる。

秋月の乱とは ?

 場所・福岡県朝倉市長谷山400。大宰府ICから九州自動車道・大分自動車道経由して甘木ICで下りる。27km、20分でETC620円。下りたら左折して200mの「東田」信号ば国道322号線へ右折。甘木市内ば抜けて北へ約8Km「長谷山」信号から200m走り、川沿いに右折300mで小道にまた右折すると40mに橋。          取材日 2014.11.21

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