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押し寄せる外敵から博多ば守った石築地(いしついじ) 「福岡県」の目次へ | |
ジンギスカンから5代目の、元の皇帝クビライ・カアンが、日本と「おつきあいしまっしょう」ていう使者ば何回も派遣してきたとい、時の朝廷(亀山天皇)と鎌倉幕府の北条時宗は黙殺した。 | |
これが歴史上名高い文永の役タイ。途中攻められた対馬・壱岐・平戸の鷹島は、警護が手薄やったケン、もう悲惨なもんタイ。女子供までひちゃがちゃ殺戮されてしもうた。生き残ったもんは手の平に穴ば開けられ、そこい革紐ば通して船の壁に吊るされたりしたとゲナ。 | |
「やぁやぁ、遠からん者は音にも聞け」から始まり、いちいち名乗りばあげて戦う鎧兜の日本の武士と、軽装で矢とテッポウで来る元軍では、戦の仕方がまるっきり違うもんやケン、日本軍は相手にならんやったごたる。 | |
鎌倉時代いうたら、だいたい800年ぐらい昔タイ。そん頃の博多湾ば見てんしゃい。海岸線がずーと内に入っとってクサ、天神やらはまあーだ海の中やったとねぇ。筥崎宮も住吉さんも海べたにあってクサ、簑島(今は美野島て書く)は、ほんなことい島やった。 博多の港は、着物んの袖のごたあケン、袖の湊ていいよった。この運河のごたあ博多大水道は、那珂川のリバレインあたりに、いまも埋められた名残の出口が残っとおタイ。 ここ今津の防塁は柑子岳(こうしだけ)の麓からから毘沙門岳の間3kmば、日向と大隅が担当して築いたとゲナ。 ここで駅長に疑問がある。防塁は博多だけじゃのうて、松浦市の星鹿町から平戸市の田平町にかけても、海岸線にありはしたとバッテン、時宗はなんで博多ばこげんガッチリ固めたとやろうか。 上・早良区藤崎の西警察署北側に残る西新の元寇防塁跡。明治通りば市内電車が走りよった頃は、この近くに「防塁前」ていう電停があった。いまもバス停の名前が残っとる。 弘安4年(1281) 元の第二次遠征軍がやってきた。しかし、来る前までには防塁が完成しとったケン、元・高麗の東路軍4万は、博多への上陸ば断念して、志賀島沖に船団ば停泊させて江南軍が着くとば待っとった。 なお、日本軍はクサ、元と漢と高麗の兵士は、捕虜にせんでかつがつ(博多弁で次々とかその都度)殺したげなバッテン、前から交流のあった南宋人は捕虜として命ば助け、大切に庇護してやったていう。 上左・いまの今津海岸は松林ば守るための防風・防砂柵が続いとる。後方は毘沙門岳。 生の松原の防塁は、昭和43年(1968)に発掘調査して掘り出し、そのまま露出展示ばしとんなったとバッテン、石が劣化したもんやケン、2000年に修理した。 地名の説明が長うなったバッテン、この古地図に書き込んだごと(赤で線引いたところ)、博多の町は石垣でガッチリ海から守られとったとが分かってもらえばよかと。これが元寇防塁タイ。 とくに袖の湊は重要やったっちゃろう。古地図でもハッキリ分かるが、サンパレスあたりは、くるりぐるっと石垣で囲んでクサ、城のごとなっとった。そやけんいまでも石城町ていう町名が残っとるとタイ。 文永の役で日本軍が、チャカンポコンにやられたもんやケン、朝廷と幕府は恐怖におちいった。全国の神社やら寺に祈祷ばするごと命令したり。亀山上皇みずからも「敵国降伏」の扁額ば筥崎宮に奉納したり、それこそ「険(けわ)しかときの神頼み」やったごたる。 上・「敵國降伏」の扁額は亀山上皇の宸筆といわれとる。 元寇(げんこう) 上・復元された石垣の石積み。 上・東公園にある日蓮上人の銅像の台座には「立正安国」の文字が見える。 子供の頃、「日本は神国やケン、元寇の時には神風も吹いてやっつけた。そやケン、アメリカやらには負けたりはせんと」て、よう言い聞かされよった。そして、学校では「元寇」の歌ば唄わされよつた。 上・東公園にある亀山上皇の台座にも「敵国降伏」の文字が見える。 | |
場所・福岡市。今津の防塁は西区今宿の信号から北上して今津橋ば渡り、今津郵便局の信号で右折旧道ば800m行き案内板から右折。海岸に駐車場がある。生の松原は、明治通りば真っ直ぐに姪浜ば抜けて西へ1kmの壱岐橋ば渡り、さらに700mで生の松原信号から右折バッテン、車は入られん。生の松原海岸森林公園ていいながら付近に駐車場ひとつなか。折角の公園がパア。西区役所のすることはケチでシケとる。藤崎の防塁跡は、天神から明治通り藤崎の信号ば右折、西署の前ば通って200mの右側にある。石碑だけなら東公園にもある。 取材日 2006.1.31〜2008.4.22 | |
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