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押し寄せる外敵から博多ば守った石築地(いしついじ)     「福岡県」の目次へ

 ジンギスカンから5代目の、元の皇帝クビライ・カアンが、日本と「おつきあいしまっしょう」ていう使者ば何回も派遣してきたとい、時の朝廷(亀山天皇)と鎌倉幕府の北条時宗は黙殺した。
 腹かいたクビライは、3万の元軍ば率いて、文永11年(1274)10月、博多に押し寄せてきた。

 これが歴史上名高い文永の役タイ。途中攻められた対馬・壱岐・平戸の鷹島は、警護が手薄やったケン、もう悲惨なもんタイ。女子供までひちゃがちゃ殺戮されてしもうた。生き残ったもんは手の平に穴ば開けられ、そこい革紐ば通して船の壁に吊るされたりしたとゲナ。

 10月20日、博多湾に入った元軍は、百道浜、地行浜、長浜、那ノ津、洲崎浜、箱崎浜に上陸してきた。西から上陸した一隊は、麁原(そはら・現在の西新・祖原山)、別府(べふ)に陣ば構えたていう。

下・明治通りの早良口から南へ下り、祖原公園東口のバス停から西へ100m入ると、元寇古戦場跡の祖原山がある。

 「やぁやぁ、遠からん者は音にも聞け」から始まり、いちいち名乗りばあげて戦う鎧兜の日本の武士と、軽装で矢とテッポウで来る元軍では、戦の仕方がまるっきり違うもんやケン、日本軍は相手にならんやったごたる。

 こらあとても勝てんと思うた日本軍は、博多の町ば捨てて太宰府へ敗走してしもうた。日本危うし。
 ところが元軍は夕方になったら残業拒否タイ。矢がのうなったケンいうて、日本軍ば太宰府へは追わずに、博多の町に火ば付けて、とっととみーんな船に引き上げてしもうた。

 なんでかいうたら、この遠征には元軍の方にもいろいろ事情があったてクサ、元軍が元と漢と高麗の寄せ集めで、指揮系統がバラバラやったこと。とくに高麗軍はイヤイヤながら来とったケン、やる気がなかったごたる。

 船に引き上げたとこへ、その晩、吹いてきたとが神風、ていうことバッテン、これはちょっとマユツバで、単なる季節風やった。それでも船がぶっつかって沈んだり、ひっくり返ったりしてクサ、高麗軍なんか1万3千人も死んどる。

 ほうほうの体で引き上げたもんの、フビライはまたも次々に使者ば寄越す。その都度、時宗は使者の首ばはねてクサ、うてあわんやつた。そして一方では、次の来襲ば予測して博多の守りば固めだした。

 幕府は壱岐・対馬ば除く九州の御家人に対し、国ごとに石垣ば作る区域ば決め、領地の田1反(約100平方米)あたりに1寸(約3cm)の割合でノルマば割り当てたていう。それが
元寇防塁。当時は石築地(いしついじ)ていいよつた。

 高さ・幅は平均して2メートル。長さは、西の福岡市西区今津から、東の福岡市東区香椎まで。約20キロに石垣ば築いたとタイ。内部には小石ば詰め、陸側は斜にして海側ば切り立たせてとった。
 石垣の上には楯ば並べて旗ば立てとったゲナ。河口やら波打ち際には乱杭ば打って侵入しにっかごとしとった。

 文永13年(1276)の3月から、たったの半年間で作り上げ、厳重に警備しとったいうケン、たいしたもんタイ。

 鎌倉時代いうたら、だいたい800年ぐらい昔タイ。そん頃の博多湾ば見てんしゃい。海岸線がずーと内に入っとってクサ、天神やらはまあーだ海の中やったとねぇ。筥崎宮も住吉さんも海べたにあってクサ、簑島(今は美野島て書く)は、ほんなことい島やった。

 いま南区の塩原中央公園ていいよるとこも海岸で、潮煮塚があるとは、むかしここで塩ば作りよったとゲナ。そやケン塩原タイ。千代の松原はいま九大病院と県庁のある東公園。駅長が子供の頃まで、まぁーだ松林のいっぱいあった。

 博多の港は、着物んの袖のごたあケン、袖の湊ていいよった。この運河のごたあ博多大水道は、那珂川のリバレインあたりに、いまも埋められた名残の出口が残っとおタイ。

 福崎いうとは舞鶴城のあるあたり。浜が長う伸びとったケン長浜。浜は伸びてもラーメンはのびたらいかん。その先っぽにあったケン洲崎(いまは須崎て書く)で、荒津山いうとは今の西公園。いまの大濠公園から六本松・別府あたりまで大きな入り江で、草香江ていいよったケン、いまも地名が残っとるし、草ケ江ていう小学校がある。

 ここ今津の防塁は柑子岳(こうしだけ)の麓からから毘沙門岳の間3kmば、日向と大隅が担当して築いたとゲナ。

 高さが3m。積み方は台形で石は西の方が花崗岩。東のほうが玄武岩で真ん中へんは交互に混ざっとる。

 昭和6年(1931)、元寇防塁は国の史跡に指定されとる。そらあそれでよかとバッテン、教育委員会はなんで全部ばフェンスで囲うてしもうて、カギまでかけとるとかいな。

 まさか積み上げた石ば持って行く酔狂なもんなぁおらんやろうもん。国宝の仏像ならいざ知らず、なんでも閉め込んどけばよかっちゃなか。

 折角の松林の中、自然にしとけばよかとい、不細工な柵で見かけもなんもあったもんじゃなか。遺跡が「窮屈でたまらん」て云いよったバイ。


右・今津に残る石築地。高さ約2m。近づいたら、やっぱあ、かなりの威圧感。

 ここで駅長に疑問がある。防塁は博多だけじゃのうて、松浦市の星鹿町から平戸市の田平町にかけても、海岸線にありはしたとバッテン、時宗はなんで博多ばこげんガッチリ固めたとやろうか。

 「元軍が次も博多に来る」ていうことが分かっとったっちゃろうか。答えは・・・
 はっきりは分からんバッテン、高麗に
007ば送り込んどって、元軍の動きは筒抜けやったていう説もある。

上・早良区藤崎の西警察署北側に残る西新の元寇防塁跡。明治通りば市内電車が走りよった頃は、この近くに「防塁前」ていう電停があった。いまもバス停の名前が残っとる。

 弘安4年(1281) 元の第二次遠征軍がやってきた。しかし、来る前までには防塁が完成しとったケン、元・高麗の東路軍4万は、博多への上陸ば断念して、志賀島沖に船団ば停泊させて江南軍が着くとば待っとった。

 一方の南宋ば主体とした江南軍10万は、総大将が発病して交代するやらしよったもんやケン、出発が遅れてしもうてクサ、平戸の鷹島あたりで、両軍がやっと合流した途端。その晩、また神風タイ。

 台風でやられた元の軍船は、かろうじて浮いとるだけ。こればチャンスと見た日本軍の武士はいっせいに襲いかかって、徹底的に殲滅したていう。元軍で帰還できた兵士は、せいぜい全体の2割しかおらんやったゲナ。

 14万人で押し寄せた元軍は、戦死、溺死合わせて11万人やったていう記録がある。4万人で迎え撃った日本軍は、防塁と神風のお陰で損害はしれたもんやったゲナ。

 むしろ、その後の恩賞で幕府は苦労したごたる。なし苦労したかていうと、国内の戦やったら、勝った方に負けた方の土地が手に入るケン、恩賞に回されるバッテン、元寇の戦では幕府にはなあも入って来るもんがなかタイ。
手柄たてたもんから不満が噴き出したていう。

 なお、日本軍はクサ、元と漢と高麗の兵士は、捕虜にせんでかつがつ(博多弁で次々とかその都度)殺したげなバッテン、前から交流のあった南宋人は捕虜として命ば助け、大切に庇護してやったていう。
 彼らば住まわせとったとが、いまの唐人町あたりやったケン、町名がそげんいうて残っとるとタイ。

 バッテン、混乱しとる戦場で、どけんしてモンゴル人、朝鮮人、唐人ば見分けたとやろうか。駅長の疑問のふたつめタイ。駅長はちょっと見たっちゃ、中国人も韓国人も日本人も見分けがつかんバイ。

上左・いまの今津海岸は松林ば守るための防風・防砂柵が続いとる。後方は毘沙門岳。
上中・いくら国の史跡いうたっちゃ、自然ば崩してまで、なし石垣に鍵までかけないかんとか。
上右・防塁ば防護せないかんなんて笑い話にもならん。もっとも駅長は、フェンスば乗り越えて撮してきた。
下・長さ約100mほどがガッチリと柵で囲われてとって、松林のここだけ違和感がある。

 生の松原の防塁は、昭和43年(1968)に発掘調査して掘り出し、そのまま露出展示ばしとんなったとバッテン、石が劣化したもんやケン、2000年に修理した。
 中央部の50mばかりば、当時の高さまで復元して見られるごとしてある。
 ここんとも柵に囲われとるとが気に入らんバッテン、博多湾に向こうてスッキリ立っとるケン、いかにも「昔はこうやったとやねぇ」ていうとが分かる。

 地名の説明が長うなったバッテン、この古地図に書き込んだごと(赤で線引いたところ)、博多の町は石垣でガッチリ海から守られとったとが分かってもらえばよかと。これが元寇防塁タイ。

 とくに袖の湊は重要やったっちゃろう。古地図でもハッキリ分かるが、サンパレスあたりは、くるりぐるっと石垣で囲んでクサ、城のごとなっとった。そやけんいまでも石城町ていう町名が残っとるとタイ。

 文永の役で日本軍が、チャカンポコンにやられたもんやケン、朝廷と幕府は恐怖におちいった。全国の神社やら寺に祈祷ばするごと命令したり。亀山上皇みずからも「敵国降伏」の扁額ば筥崎宮に奉納したり、それこそ「険(けわ)しかときの神頼み」やったごたる。

 元軍が来る前から「災害の多か原因は人々が正法である法華経ば信んじんけんタイ」ていいよった日蓮は、文永の役の後、「ほーらみてんない。オレが云うたとおりやろうが。このまま浄土宗などば放任しとったら、まあだおおごとの起こりますバイ」いうてお説教。

 「立正安国論」ば持ち出し、法華経ば中心にすれば、国家も国民も安泰となる(立正安国)て主張しだしたもんやケン、幕府から「坊主が政治に干渉すんな」いうて、隠岐の島に島流しされてしまう始末。混乱の極みやった。

上・「敵國降伏」の扁額は亀山上皇の宸筆といわれとる。
下・この扁額が上がっとるケン、重要文化財の筥崎宮楼門ば「伏敵門」ていう。
 元軍には神風ば吹かせなったバッテン、時が経ちすぎたけんか太平洋戦争では役にたたんやった。
 筥崎宮は駅長の氏神さんやケン「戦争に勝ちますごと」いうてだいぶんお参りに行ったもんやった。

      元寇(げんこう)
  作詞・作曲 永井建子(ながいけんし)

1 四百余洲(しひゃくよしゅう)を挙(こぞ)る
  十万余騎(よき)の敵
  国難ここに見る
  弘安(こうあん)四年夏の頃
  なんぞ怖れんわれに
  鎌倉男子(だんじ)あり
  正義武断(ぶだん)の名
  一喝(いっかつ)にして世に示す

2 多々良(たたら)浜辺の戎夷(えみし)
  そは何蒙古勢(もうこぜい)
  傲慢無礼(ごうまんぶれい)もの
  倶(とも)に天を戴(いただ)かず
  いでや進みて忠義に
  鍛(きた)えし我がかいな
  ここぞ国のため
  日本刀(にっぽんとう)を試し見ん

3 こころ筑紫(つくし)の海に
  浪おし分(わけ)て往(ゆ)く
  ますら猛夫(たけお)の身
  仇(あだ)を討ち還(かえ)らずば
  死して護国の鬼と
  誓いし箱崎(はこざき)の
  神ぞ知ろし召す
  大和魂(やまとだま)いさぎよし

4 天は怒りて海は
  逆巻く大浪に
  国に仇をなす
  十余万の蒙古勢は
  底の藻屑(もくず)と消えて
  残るは唯三人(みたり)
  いつしか雲はれて
  玄海灘月清し
   

上・復元された石垣の石積み。
右・この写真もフェンスの網の間から苦労して撮した。石垣まで持って行きゃあせんちゃケン、教育委員会はまっと市民ば信用せな。なんもかんも囲い込む神経が分からん。

上・東公園にある日蓮上人の銅像の台座には「立正安国」の文字が見える。
左・台座のぐるりには日蓮の業績が銅板彫刻になっとる。その中の壱岐が元軍に陵辱された場面。

 子供の頃、「日本は神国やケン、元寇の時には神風も吹いてやっつけた。そやケン、アメリカやらには負けたりはせんと」て、よう言い聞かされよった。そして、学校では「元寇」の歌ば唄わされよつた。
 子供心にわきゃあ分からんまま、いま考えてみたら、むつかぁしか歌詞ばウソばっかり唄いよったごたる。

上・東公園にある亀山上皇の台座にも「敵国降伏」の文字が見える。
 日蓮さんとふたありで、いまも博多湾に目ば光らせとんなるとタイ。

 場所・福岡市。今津の防塁は西区今宿の信号から北上して今津橋ば渡り、今津郵便局の信号で右折旧道ば800m行き案内板から右折。海岸に駐車場がある。生の松原は、明治通りば真っ直ぐに姪浜ば抜けて西へ1kmの壱岐橋ば渡り、さらに700mで生の松原信号から右折バッテン、車は入られん。生の松原海岸森林公園ていいながら付近に駐車場ひとつなか。折角の公園がパア。西区役所のすることはケチでシケとる。藤崎の防塁跡は、天神から明治通り藤崎の信号ば右折、西署の前ば通って200mの右側にある。石碑だけなら東公園にもある。       取材日 2006.1.31〜2008.4.22

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