このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

潮が引いたら顔ば見せる、とつけもなか水の道      「福岡県」の目次へ

 新田(しんでん)大橋。筑後川のいちばん下流の橋で、いちばん長か橋。全長500mもある。

 潮の引いたときこの橋から、川の真ん中に自然石ば積み重ねた、とてつものう長か堤防が見える。

 上は、むかし佐賀線が走りよった「筑後川昇開橋」の辺りから、下流は有明海へ向こうて、はるか彼方へカーブして続いとる。
 河口からいうと
全長6,527mもあるゲナ。

 誰がなんのために、こげなもんば作ったと ?

 まず誰が・・・明治6年(1873)にオランダの土木技術者
ヨハネス・デ・レーケていう人が、明治政府から頼まれて、31才の若さで日本にやって来た。

 デ・レーケさんは、それから30年間にわたって、木曽川やら淀川の改修、大阪築港、四日市築港など、ありとあらゆる日本の河川治水、港湾建設ば指導しとんなると。

 いっしよに連れてきとったおかみさんと妹さんば、続けて亡くしてもクサ、日本に踏みとどまって、日本の治水指導に情熱ば燃やしなったとよ。

 明治16年(1883)に筑後川ば視察して、さっそく工事に着手。川の真ん中に水ば誘導する堤防ばクサ、自ら監督して作り上げなったとがこれタイ。「筑後川デレーケ導流堤」ていわれる近代土木遺産バイ。

 何のために・・・筑後川(地元のもんはチッゴガワ)の上流から流れてくる膨大な土砂の堆積ば防いでクサ、洪水の防止と船舶の航路ば確保するためタイ
。この導流堤ば築くことによって、筑後川下流の流れが速まり、土砂は有明海の遠浅の先きーのほうまで押し出されていく、ていう寸法タイ。

 知らんもんが見たら「なんやこらあ」て思うようなしろもんがクサ、でけて115年経った今でもチャーンと機能しとって、筑後川ば守っとるとバイ。

 毎日見よう筑後川の河口のもんでさえ、こげな人のおんなって、こげな導流堤いうとがでけとって、恩恵ば受けよるなんて、知らんもんのおるっちゃなかと ?

 デ・レーケさんには感謝せないかんバイ。まさに
「治水の祖」やねぇ。 デ・レーケさんの云いなった名言がある。国交省、よう聞いとときない。「川を治めるには まず山を治めるべし」

上流はるか右に赤い「筑後川昇開橋」が見える。導流堤に立っとる柱は満潮時に堤の位置ば知らせるため。

新田大橋の下ば導流堤にそって漁船が安心して、行ったり来たりしよった。

新田大橋から下流。自然に逆らわん曲線がとても美しか。

 場所・大川市。筑後川ばどんどん、どんどん下って行って、一番下流の「新田大橋」からがよう見える。
 ただし潮の引いた時だけ。                                取材日2007.2.15

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