弘化2年(1845)から嘉永2年(1849) 岩永三五郎は薩摩藩に招かれて、甲突川に西田橋などの五橋ば架けた。
しかし、橋には、要石などの軍事機密があって、そのことば知っとる石工は殺される怖れがあった。石橋の完成が近づくと、棟梁の三五郎は連れてきとった仲間の石工たちば、すこしづつ肥後に帰していった。
甲突川五石橋のひとつ、西田橋の高欄の飾りには、三平の技術がどうしても必要やったケン、三五郎は最後まで三平ば残しとったが、弘化3年(1846年)これが完成すると、すぐ闇夜に紛れて逃げるように指示した。
現在のさつま町から出水市付近ば逃げるとき、ついに三平は追手に見つかり、山中に逃げ込んだもんの、腕に深い傷ば負うた。三平はその後も逃げ続け、やっとこっと、肥後領津奈木村(現熊本県津奈木町)まで辿り着いた。
津奈木の人々は優しかった。代官も肥後の石工のことはよう知っとったし、なにより惣庄屋(当時その地域を指導する役職)の衛藤三郎左右衛門為経が、三平と同郷のうえ同い年ということも味方した。
でけたとは嘉永2年(1849)。長さ18m、幅4.5m、径間(スパン)17m、拱矢(基礎から要石までの高さ)5.7m。
橋の中央部はアーチば構成する石の上面が、そのまま路面となっとって緩やかな弧ば描いとるケン、機能的でありながら美しか。最近ある旅人が「地上に架かるモノクロの虹」ていうた。
高さの割りに径間が長かケン、半円じゃのうて、かなり扁平に見える。アーチ橋ちゃだいたい美しかもんバッテン、輪石が大きく湾曲しとって、ここんとは特別スマートに見える。
欄干の狭間石には、面白か彫り物もあり、肥後まで帰ってきた三平の心の余裕も感じられる。
この石橋が架かっとる道は旧薩摩街道で 「鹿児島県史料」によれば、島津の殿さんが10回以上も参勤交代で通行し、休憩したりしとんなるゲナ。石工は殺そうとしといて皮肉なもんタイ。
津奈木までは辿り着いた三平バッテン、その後の足取りは掴めず、没年とその場所も分からんゲナ。橋のほうは年が経った今も、住民の生活ば支える橋として頑丈なまま残っとる。
そして橋は、昭和49年(1974)、県の重要文化財に指定された。
橋の名前は町の中央にそびえる巨大な岩山・重盤岩に由来する。写真右。火砕流の堆積物と思われる。「くまもと緑の百景」にも選ばれとる。
標高80mの岩峰でいつもはためいとる日の丸の旗は、今の天皇が誕生したときに上げて、それからずーっと続いとるとゲナ。
橋のそばには「つなぎ温泉・四季彩」ていう立ち寄り湯があって500円。写真右。
小さかレトロなモノレールで岩山に上がっていくと、岩の中腹に露天風呂があって、津奈木の町ばパノラマで見ながら湯に浸かることができる。
日本全国に残る石橋は1300以上あるバッテン、そのうち9割以上が九州で、そのうちの4割以上が熊本県にあるていうケン、さすが石工が活躍した肥後だけのことはある。
肥後の石工のふるさと種山村。八代市東陽町にある「石匠館(せきしょうかん)」に行けば、石橋のこたあなんでも分かるごとなっとる。国道3号線「宮原」の信号ば東へ曲がれば3km10分で行ける。
津奈木は薩摩街道の重要な宿場。この橋の上ば西郷隆盛も坂本竜馬も通って行ったに違いなか。
村人の親切な介抱で一命ば取り留めた三平は、片腕を失ったもんの快復にむかう。
雨が降る度に川が渡れんごとなって困っとった村人達のことば知って、三平は治療と匿ってくれた礼に、小さな太鼓橋ば2橋架けた。(津奈木町にはいまも9基の石橋が残されとって、そのほとんどが三平が作ったて云われとる)
さらに庄屋の音頭で村ば分断しとった津奈木川に、大きな太鼓橋ば架けることになった。勿論、三平が村人ば指揮して作った。石材はそこいらにいくらでもあった阿蘇の凝灰岩ば使用した。
それが、この津奈木重磐岩眼鏡橋(つなぎ・ちょうはんがん・めがねばし)ていう訳よ。三平がひとりで架けた橋では最大の橋ていわれとる。