このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

径間日本一と二の橋が、山懐でランデブー      「大分県」の目次へ
Aランク近代土木遺産

 いまは豊後大野市てなっとるバッテン、旧清川村の山ん中に、わずか80m離れて日本で一番と二番の石橋が並んどる。

 その名前は轟橋と出合橋。柱状節理の奥嶽川絶壁にかかったロングスパンアーチの光景は「参った」ていう以外に言葉がなか。

 大分と宮崎との県境は、祖母山と傾山ば結ぶ尾根で、ここが分水嶺。こっから北に落ちた水は阿蘇火山の溶岩地層ば削り、奥嶽川渓谷ば彫り上げた。

 その流れば渡るために造られたとが轟橋と出合橋ていう訳。

上・轟橋から見た出合橋。
左・出合橋から轟は見上げるようになる。
でけた当時は、森林鉄道のガソリンカーが走りよった。
下・出合橋は、親柱が省略されて高欄といっしょになっとった。

 これまで日本一長いスパン(径間てもいう。アーチの両端ば結ぶ直線距離)の橋は、熊本の砥用町(ここもいまは合併して美里町になった)にある霊台橋ていわれとった。霊台橋は径間が28.4m。

 ところが平成10年(1998)東和大学建設工学科の調査で、轟橋は長かほうの径間が32.1m。短かかほうが26.2m。出会橋は径間が29.3mあるいうことが分かった。

 そやケン、径間の広さでは日本
1位が轟橋2位が出合橋霊台橋は3位ていうことになった。

 バッテン、熊本のもんは「霊台橋は架けたとが弘化4年(1847)バイ。大正、昭和の新しか橋とは比べもんにならんバイタ(なぜかここだけ熊本弁)」ていいよんなる。

これまで一番やった美里町の霊台橋。三番になったバッテン、歳は一番お兄さん。

 それはともかくとして、昭和9年(1934)完成の轟橋は高さでも日本一で27m。もともとは竹田営林署が長谷川林道(森林鉄道)の鉄道橋として架けたもんやったバッテン、現在は左右知(そうち)と平石ば結ぶ町道として使用されとる。

 大正14年(1925)にでけた出合橋は、旧清川村の轟、平石地区の人達によって、初めから道路橋として作られたとゲナ。橋の名前はいまさら解説するまでもなかろう。轟川に架かっとるけん轟橋で、奥嶽川が出会うとこに架かっとるケン、出合橋タイ。

 阿蘇山が大噴火した際に流れ出た溶岩はこの一帯にまで達し、奥嶽川の柱状節理の大絶壁やら原尻の滝ば造った。その奥嶽川と轟川が出会うここで、轟橋と出合橋ていうふたつの石橋が寄り添うごと架かっとる。
 NHKの「世界探検ロマン」じゃあなかバッテン、「ああ、ロマンですなあ」

 それにしても、この二つの橋、主要道路から遠く離れとるとはいうもんの、だあーれも来んし、その存在すら知らん人が多か。こげな遺産のあるとやケン、長崎県のごと大分県もまあーだしっかり宣伝せなつまらんバイ。

 場所・豊後大野市清川町左右知。竹田から三重へ向かって国道502号線を約12kmで右に「道の駅きよかわ」その直前の「砂田交差点」信号ば右折して県道45号線に入る。約2kmの清川中学校を細い道へ直進して500mで左折。県道410号線を合川郵便局前通過して南下する。局から3kmで左に案内板があるけん左折。     取材日 2008.09.04

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