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僧・禅海の執念が掘った手掘りのトンネル    「大分県」の目次へ

 耶馬渓ていえば、青の洞門。耶馬溪に来た観光バスはみんなここへ行く。

 その青の洞門は、山国川にそそり立つ競秀峰(きょうしゅうほう)ていう岩山の裾に掘られた隧道タイ。

 もともとここは、貞享3年(1686)に中津藩主・小笠原長胤(ながたね)が、荒瀬井路の水利工事いうとに手ばつけたところ。
 
 ところがこれが難工事で、おおぜいの人夫と金ばかけて、3年後の元禄2年(1689)やっと通水までこぎつけた。

 この堰がでけたことで、3000戸の農家と1200町歩の水田が恩恵ば受けることになったゲナ。

 ところがところがタイ。この長胤がクサ、お家騒動で失脚してしまいなつたとよ。

 工事が途中で止まってしもうたもんやケン、ほったらかされた山国川の
樋田の間の河原は、水没したまま交通の難所となっとったていう訳タイ。

 享保9年(1724)。ここば通りかかったとが
禅海和尚でクサ、主役の登場てなる訳よ。


 
今から250年ほど前の話。
 諸国遍歴の途中、ここば訪れた禅海ていう僧が
「鎖渡し」て呼ばれとった山国川の難所で、命ば落とす村人が多かていうことば知って、安全な道ば造ろうて決意した。

 ひとりで岩壁にノミばふるう禅海ば見て、初めは「ばぁーかが」て笑うとった村人達も、いつのまにか禅海和尚ば手伝うごとなったケン、禅海は托鉢して回って資金ば集め、石工ば雇うて掘らせるようになったゲナ。

 ある記録によれば、宝暦13年(1763)の4月10日に、30年もの長い歳月ばかけて、この隧道は完成した。禅海が掘り始めたとが49才やったげなケン、でけたときはもう80才タイ。

 この瀬で死人も出んごとなった。村人達は喜んだ。そして洞門完成後の和尚は、村人から「生き仏」と尊ばれてクサ、法悦にひたる日々やったて伝わっとる。

 バッテン、なんでも話には裏がある。美談ゆうてもよかばっかりじゃあナカ。

 禅海はどうもこのトンネルで、人は4文、牛馬は8文の通行料ば取ってクサ、その「あがり」で優雅に暮らしよったらしかバイ。











                          青の洞門、北側入口と、南側入口にある禅海像。


 人が困っとうとば助けるためにトンネル掘ったなんて、聞けば涙のでるような話になっとるバッテン、初めの志とはかけ離れた、話になってガッカリする。日本道路公団改め「J H」の元祖のごたあ有料道路の元祖やなかかいな。


 ノミと槌だけで掘り抜いた墜道の長さはなんと約342m。トンネル部分だけで144m。明治40年に大改修ばして、いまは車も通れる国道のトンネルになっとるバッテン、禅海が掘った隧道も一部は健在で、昔の素掘りの跡が残っとる。

 また、羅漢寺の麓のリフト乗り場の近くには、禅海堂ていうとかがあって、和尚が洞門ば掘るために使うた槌やノミが保存、展示されとる。

     
一の峰・二の峰・三の峰・恵比須岩・鬼面岩・妙見岩・大黒岩・殿岩戸・鉾岩・釣鐘岩・陣の岩・八王子岩

            
耶馬渓・競秀峰。左が中津側で右が山国側。この下を禅海が掘り抜いた。

 明治の文豪・菊池寛がこの話ばチャッカリ頂いて、小説「恩讐の彼方に」ば書いたところ、これが今でいうベストセラーになつとうとタイ。お陰で青の洞門も耶馬渓も有名になった、ていう訳よ。

 
「恩讐の彼方に」の概略はこうタイ。

 
安永3年初秋の江戸浅草。旗本・中川三郎兵衛の家臣・市九郎は、主人の妾のお弓とでけとったことがバレてクサ、成敗されそうになったもんやケン、反射的に主人ば殺してしもうた。

 市九郎は、お弓と金ば持ち出して二人で逐電。木曾路ば逃げながら美人局(つつもたせ)・ゆすりばやりよったが、やがて昼間は街道で茶店ば出し、夜は切取強盗に変身するていう、よからん生活ばするごとなっとった。。

 3年目の春に追い剥ぎばしとって、旅人に顔ば見られたもんやケン、殺してしまうっちゃが、ここで市九郎は深い自己嫌悪にとらわれ、お弓の許から逃げ出し、たまたま目についた寺に飛び込む。この寺が美濃大垣の浄願寺やった。

 浄願寺の住職から「出家して今までの罪ば償なわんね」て勧められ、了海の法名ばもろうて修行に励んだ。半年後、自分の修行が進まんとば自覚した市九郎は、住職の許しばもろうて諸国雲水の旅に出る。

 自分が旅人ば襲いよったもんやケン、特に道中の人々に気ば使い、道で苦しむもんがおったら手ば引き、病気の老人やら子供ば背負い、壊れた橋やら崩れた道があったら普請ば手伝うたりしよった。

 享保 9年秋、九州に入って宇佐八幡から山国川ば遡って羅漢寺へ参ろうとしたときのこっタイ、樋田川に落ちて死んだ旅人ば弔うとこに出っくわした。聞いたらここで毎年10人ほどの人が命を落とすゲナ。

 ここの岩盤ば貫いて道ば作れば、年間10人、10年で100人、100年で1000人の人が救えるとじゃあなかか、これこそ自分に与えられた仕事バイてひらめいてクサ、洞門作りの大発願ばする。

 村人に笑われながらも9年間で40mほど掘った。この辺りから手伝う者が出てきた。18年目の終り、洞門が半分まで完成した。村人たちが本格的に加勢ばし始める。

 19年目、殺した中川三郎兵衛の遺児・実之助(父が殺された時3歳)が、仇ば求め諸国ば回っとるうちに、ここにおった了海ば発見。了海はすすんで討たれようとするとバッテン、いっしょに掘りよった石工たちが止める。

 石工の頭領が「せめて大願成就の日まで待ってやんしゃい」ていう言葉に、実之助も思いとどまる。そして完成のその日ば少しでも早うしようて、自分も掘るとば手伝い始めた。それから20年、朝から晩までいっしょに掘りよううち、だんだん復讐の思いが薄れていく実之助。

 21年目の秋が来て。延享3年9月10日夜9つ頃。ついに隧道は貫通。夜やったケン、了海と実之助の二人だけで掘りよう時やった。二人は思わず手を取り合って喜びあう。

 そして、了海は「石工たちが来んうちに、早う本懐ばとげてくれ」いうて、首ば差し出したしたとバッテン、実之助はこの老僧の手ば取って、ただ感激の涙にむせぶばかりやった。

・・・・これで明治の名作
「恩讐の彼方に」のダイジェスト版おわり

秋の山国川と競秀峰。左奥に耶馬溪橋が見える。
切り立った岸壁の下に、禅海が掘った隧道が続く。
 場所・大分県中津市本耶馬溪町。九州高速大分道ば日田ICで下り、左折して国道212号線ば大石峠越えで山国町に入る。「道の駅やまくに」から17kmで青の洞門駐車場に着く。中津市からやったら国道212号線ば約12km南下する。
                                  取材日 2005.11.21〜2006.4.3
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