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国内で最大級の不動明王像         「大分県」の目次へ
大分県指定史跡

 普光寺磨崖仏(ふこうじ まがいぶつ)は、大分県豊後大野市朝地町上尾塚の普光寺境内にある800年も前鎌倉時代の磨崖仏。大分県の史跡に指定されとる。

 高野山真言宗の普光寺は、もともと普光山筑紫尾寺(ふこうざん ちくしおじ)て呼ばれとったっちゃが、筑紫尾が畜生て聞こえるもんやケン、江戸時代になってから山号ば筑紫尾山、寺名ば普光寺と改めたていう。

 約20mのほぼ垂直な絶壁に火焔ば描き、高さ11.4mと、大分県内最大で、日本国内でも最大級の不動明王像が彫られとる。この不動明王像ば中心に、両脇に
矜羯羅童子(こんがらどうじ)
制多迦童子像
(せいたかどうじ)が配されとる。

 不動明王の顔ば良う見ると、牙ばむいていて睨みばきかせとるごたるバッテン、800年もの風雨により表面はまろやかに摩耗し、穏やかな優しか表情になってしもうとんなる。

 磨崖仏ば足元から見上げるとその高さにビックリするとともに、一体どげんやって彫ったっちゃろうかて疑問がわいてくる。

 約20mのほぼ垂直な絶壁に、下から足場ば組んだにしても命がけの危険な仕事ばしたもんタイ。

 さらに右手には2つの龕(がん)があり、左側の龕には丸彫りの大日如来像ほかの仏像が安置されるとともに、側壁に阿弥陀如来、小矜羯羅童子、小不動明王、小制多迦童子像が彫られとる。どうも鎌倉時代の作らしか。

 龕いうとは仏像ば納めるため、岩壁ば掘りくぼめた場所のこと。

 実は、この場所一帯は阿蘇山の火砕流が固まって出来た溶結凝灰岩ていう柔らかい地層で覆われとる。龕の天井に見える黒い斑点はスコリアて呼ばれる軽石の仲間で、火砕流であることば示す貴重な証拠ゲナ。

 豊後大野市に磨崖仏が多かとはこうした 理由もあったと。

 柔らかい地層やったとはいえ、手掘りでこの大きな龕ば作るとは大変な作業やったろう。

また、右側の龕には懸造り(がけづくり)の護摩堂があり、いまは使われとらんバッテン、最奥の壁には、ゆうに2mば超える見事な毘沙門天が刻まれとる。

 こちらの磨崖仏は龕の中にあることから、風化も少なくしっかりとしたでけたばかりのごたる彫像がみれる。側壁には多聞天像が浮き彫りにされとんなる。

普光寺は、別名「あじさい寺」とも呼ばれ、シーズンば迎えると多くの観光客が訪れる。

普光寺磨崖仏の紫陽花は、6月中旬から7月中旬にかけて本格的な見頃ば迎える。

 自然の岩山に仏像ば刻むことはアジアの仏教圏で広く行われ、インドのアジャンター石窟、エローラ石窟、中国の雲岡石窟、龍門石窟などは特に有名か。一般にこれらの大規模な遺跡は「石窟」「石窟寺院」などて呼び、朝鮮半島や日本などに分布する、比較的小規模な像ば「磨崖仏」と呼んどるバッテン、両者の区別はむずかしか。

 日本では、切石から作った、移動可能なものば「石仏」て呼ぶが、「臼杵の石仏」のごと磨崖仏のことば「石仏」て呼ぶことあって「石仏」「磨崖仏」の区別はハッキリはしとらん。

 日本の磨崖仏の造立開始時期は平安時代初期までさかのぼると言われ、狛坂寺址の三尊磨崖仏(滋賀県栗東市)は最初期の事例とされている。平安時代前期から後期に移行すると、各地に多くの磨崖仏が盛んに造立されるようになり、分布は九州地方、近畿地方、関東地方、北陸地方、東北地方に広がった。

 中でも大分県には全国の磨崖仏の6〜7割が集中していると言われる。

 場所・大分県豊後大野市朝地町上尾塚1225。太宰府ICから九州自動車道ば八女ICまで、28km、25分、ETC830円。下りたら取付道路から右折して国道442号線ば八女市内ば抜けて、小国越して約90Kmで竹田に着く。四方に歩行橋のある信号からさらに2.8kmk先の三宅三叉路ば右折。田舎道ば1.5kmで到着する。手前の右手に40台収容の駐車場がある。 
                     取材日 2001.6.11/2004.2.12/2007.6.23

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