なしこげなもん(門 ここシャレ)の、こげなとこにあると ?
堀三太郎ていう炭鉱の経営者がおんなった。
明治22年に鞍手郡勝野村(現小竹町)で炭鉱経営ば始め、各地でも炭鉱ば経営して、貝島、麻生、伊藤、安川と並んで、筑豊の五大炭鉱王と呼ばれるほどになったていう。
生まれたとは幕末の慶応2年(1866) 新町の醤油屋の長男として醤油の販売ばしよるうちに、炭坑主の堀甚四郎に見込まれ養子になった。
太っ腹やった彼は、23歳の時から養父に代わって炭鉱経営ば始めたていう。
明治44年(1910)には、海軍の御徳炭鉱経営ば手掛けて成功。
それからは掘った炭坑がみんな当たって大もうけ。巨万の富が転がり込んでくるごとなった。
しかし彼は蓄財ばひとりじめせず、明治40年には、大規模な農園ば造り、地域農業の振興に尽力した。
その跡地に建っとるとがいまの直方第3中学校ていう。
大正4年には、後援会から担ぎ出されて、衆議院選挙にも当選しなったバッテン、72歳でスッパリ引退。
「子孫の為に美田を残さんやった鉱業家」として有名タイ。
上の上・薬医門の正面から右の塀が北に翼を伸ばしたように広がる。
上・医薬門入ったすぐ左手に、福間病院のポリシーが石(医師にのシャレ)に刻まれてある。「健康の要諦は 光と土になじむことである 心の健康にも 体の健康にも」
上の上・薬医門の正面から左翼の塀が朝日に輝く。
上・病院の中にある堀三太郎の邸宅跡。チャンと手入れして保存されとる。
左・古賀市と福津市の境に福間病院はある。
明治31年(1898)に建築された堀三太郎旧邸はどっしりとした木造平屋で、広か座敷や板の間、庭園がある。寄贈うけた直方市が昭和16年(1941)に中央公民館とし、市民やら筑豊の人たち3千組が結婚式場として利用したていう。
古うなったもんやケン、平成9年から2年かけて解体復元、いまは生涯学習の「直方歳時館」として無料公開されとる。敷地内には、建築当時の「なまこ壁」の土蔵がいまもそのまま残されとる。
堀三太郎の直方歳時館
直方の屋敷は市に維持費付きで寄付して、この福間で余生ば過ごし、昭和33年に92歳で天寿ば全うした。
そしてこの別邸は戦後、売却され、精神科の「福間病院」がその敷地に開設された。そやケン、別邸の主要部分はそのまま残され、9万坪あった敷地の半分は住宅地に転用された。別邸は床の腐食が進んだもんやケン、平成18年(2006)改修され保存されとる。
福間病院は創立から54年。当初、病床30床から始まり、いまは500床の大病院になっとる。敷地は広く、日本庭園、芝生グラウンド、雑木林まである。
戦後、一時は米軍の将校クラブとして接収されとったけど、解除されたとき炭鉱主と親戚やったいまの院長が、その敷地の一部ば譲り受け病院にしたていう。
この精神科病院は、全国に先駆けて自由開放型医療ば始めたっちゃケン、敷地内のグラウンドから雑木林の小道まで、すべて患者に開放されとる。よほどの重症患者でないかぎり、病棟外ば自由に散歩できる。こげなよか環境の病院は珍しかと思うた。
昭和41年(1966)には 「福間看護高等専修学校」も併設。道理で若い看護師さんの多かと思うた。昭和50年(1975)には、日本で第一号の精神科デイケアの承認ば受けた。