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重文の本堂は、宝形造りの屋根が輝いとった      「福岡県」の目次へ

 いまはもう、ひっくるめて朝倉市バッテン、旧杷木町の西、旧朝倉町との境にある広大山 普門院(ふもんいん)。

 この寺は天平19年(747)に、第45代聖武天皇の勅願で、僧
行基(668〜749)が創建したて伝えられとる。

 
もともとは筑後川の河畔にあったっちゃが、水害にばっかり遭うもんやケン、いまのとこに移築された。

 その後も再三、戦火に遭うて、寺宝やら古か記録は失うとるバッテン、本堂と本尊だけは難ば逃れ、再建、修理ば経て今日までなんとか保てとる。

 この行基さん。もともとは百済系渡来人「氏族」の末裔やったとゲナ。朝廷の信頼が厚かったケン、東大寺の大仏勧請にも起用され、日本で初めて大僧正の位ば貰いなった。日本中あっちこっちに、寺やら温泉やら溜め池、港まで造って歩いとんなると。天皇直属の日本開発担当者やったちゃなかろうか。

 奈良時代の人間ブルドーザーていわれとんなると。田中角栄の先祖かもしれん。81才で死になったあとは朝廷から仏にされて「菩薩」に昇格しとんなる。菩薩さんやけん、きやーすう行基さんやら云うたらいかんとタイ。

 
境内の樹齢350年ていう「びゃくしん」は幹が斜めに伸びとって珍しか。ビャクシンいうたら大イブキのことで、スギ科の常緑樹。いまは北側に大きく傾いとるケン、正確な高さは分からんやろうバッテン、胸高周囲は約2メートル、幹の半分は失いつつもなお樹勢は盛んでおる。福岡県の天然記念物に指定されとる。

 池に架かる橋ば渡ると、階段の上に本堂の屋根があらわれる。まわりは四季折々にアジサイやモミジなどが咲いて美しかはずバッテン、行ったとがその時期じゃなかったケン、ただただ静かなたたずまいやった。山寺の趣はあるいうもんの、檀家が少うて寺に金がなかとか、もともと寺がビッタリ(きれい好きの反対)なのか手入れは行き届いとらんと見た。

 高野山真言宗の寺で、最初は広大普門寺て云いよったが、天和年間(1681〜)普門院に改められた。

 本堂は鎌倉時代(1192-1333)後期に再建されたもので、宝形造の本瓦葺きで見事な合天井がある。

 県内最古の木造建築物いうことで、大正2年(1913)、国の重要文化財に指定されとる。

 専門的なことは分からんバッテン、学者さんによると「本堂は桁裄三間・梁間三間の一重仏堂で、床が低く四囲に縁を廻らす」とある。隅棟が屋根の中央に集まる宝形造の本瓦葺で、軒は本繁垂木ゲナ。

 貝原益軒さんの「筑前国続風土記」には「この寺の仏堂広からずと雖も、その造営の精巧なること国中第一なり」て褒められとる。

 
須弥檀(しゅみだん)や、一枚板の床板などその造りの精巧さは、当時、国内随一ていわれとったもんげなケン、見てみたかったバッテン、本堂はガッチリ閉め切られとって、のぞき込むこともでけんやった。

 福岡県には古刹・名刹が多かにもかかわらず、国宝・重文に指定された建造物の寺は、善導寺と普門院の2ヶ寺しかなか。そして、どっちも筑後川の流域ていうとは偶然やろうか。

 
本尊の十一面観音菩薩立像は、奈良時代の亀神元年(724)に行基が作ったていういわれのあるもんで、 本堂と一緒に重文タイ。 寺伝によると聖武天皇の等身大の像ていわれ、身長176cmの立派なもんげなバッテン、本堂の中の厨子に安置されとっては拝まれん。この寺には弘法大師空海も行基菩薩ば慕うて来山したことがあるて伝えられとる。

 普門院のすぐ近くに麻底良山(までらさん)ていう奇妙な名前の山がある。このあたりは日本書紀に出てくる「朝倉の杜(もり)」ていうことになっとる。卑弥呼から続いて、大和朝廷になる前、朝倉のこのあたりに日本の朝廷があった、て、駅長は思うとるとタイ。

 山頂の麻底良布(までらふ)神社に祭られとる神が、イザナギの命ということからすれば、天孫降臨の地がこの山やったとかも知れん。「マデラフはアマテラスのこと」ていうう説もある謎の神社タイ。

 7世紀に斎明天皇が百済ば救うために西下してきなって、麻底良山の木ば伐って、ここ志波(しわ・柿で有名)に朝倉宮ば造営しなったところ、雷神が腹かいてクサ、御殿ば焼き、斉明天皇も病気になって死んでしまいなった。
 みーんなが麻底良の神の祟りて震えあがったゲナ。しかも、天皇の葬儀の時、麻底良山の上に鬼があらわれて、大笠ば着て儀式の様子ば覗きよったていう。 この山、じつに怪奇な山ていう訳よ。

 死んだ斎明天皇にかわって即位した天智天皇(中大兄皇子)は、母帝の贖罪のため「宮柱ば太しく立てて麻底良布神杜ば尊崇した」て「神社縁起」に書かれとる。
 「延喜式神名帳」にも「上座郡麻底良布神社 小一座」て記されとるゲナ。延喜式ていうとは醍醐天皇の延長5年(927)に、官府の作法、いまていうなら行政の施行規則ば定めたもんで、その神名帳にチャーンと登載されとる古か神社ていうことタイ。

 麻底良布神杜はこげん格式の高っか神社やったとバッテン、元龜・天正て続いた戦乱に、いつの間にか杜地は没収され、杜屋もまた荒れて見るかげものうなっとった。

 それば、慶長5年に黒田長政が筑前の領主になったとき、その家来・栗山備後利安が志波あたりば采領することになって、祭田ば寄進したりして再興しとんなると。

 元禄年間には、郡主になった鎌田昌生が本殿、拝殿ば建てて烏居も寄進したていう

 しかし、世の中が明治大正と代わるにつれ、社も人里離れた山上にあるため荒れるにまかせ、辛うじて三月十五日の祭礼だけが続けられとる。

 普門院はこの麻底良布神社の別当寺でもあった。別当寺(べっとうじ)ていうとは、神仏習合が許されとった江戸時代以前に、神社に付属して置かれた寺のことタイ。

 神前読経など神社の祭祀ば仏式で行う者のことば別当(社僧ともいう)て云うたことから、別当の居る寺ば別当寺とか神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)などていうた。

上・黒田如水・長政父子に仕え、ここ志波の土地ば納めとった重臣栗山備後利安が、慶長9年(1604)に、如水の冥福ば祈って建てた円清院の向こうに麻底良山が見える。
 普門院はこの左手奥にある。
右・麻底良山の山頂にある麻底良布神社に懸かる扁額。
 普門院から麻底良山まで小1時間で登れるバッテン、登山道も神社も訪れる人もなく荒れ果てとった

上・山門からこの小さな橋ばわたって、真っ直ぐな長い石段を上がると本堂がある。

ガッチリと警報機までついてガードが堅い本堂。当たり前やろう。

 場所・朝倉市杷木志波。大分自動車道ば杷木ICで下りて国道386号線へ右折。3kmで原鶴温泉入口を通過、さらに1kmで高速の下ばこぐったら(洒落て云えばアンダークロス)すぐの信号ば鋭角に右折。400mで〒志波局の先ば左折して光宗寺の前ば左カーブすると正面に円清院と麻底良山が見える。円清院の横ば直進400mで普門院に到着する。  取材日 2008.03.15

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