住吉三神もそんときいっしょに生まれとんなるし、アマテラス、ツキヨミ、スサノオやらは弟分になる。
アマテラスの孫が神武天皇でクサ、そっから数えて14代目の仲哀天皇の嫁さんやった神功皇后からすれば、少童命はムコさんのずーっとずーっと先の先のご先祖さんていう訳タイ。
なし風浪宮とか風浪神社ていうか分からんけど、風にも浪にも勝ってきなったとやケン、勝ち運の神、航海安全、商売繁盛の神として、地元では「おふろうさん」の名で永年親しまれてきとる。
そんときいっしょに生まれとんなる住吉さんとは親戚筋で、専門の守備範囲も一緒で航海の神さんタイ。
檜皮葺の社殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)、夕陽に映える夕方が美しか。明治40年5月27日、国の重要文化財に指定されとる。
流造(ながれづくり)いうとは、日本の神社建築様式のひとつで、柱と柱の間が一間やったら一間社流造。ここんとは三間あるケン、三間社流造。
もともとは、応神天皇の元年に詔勅により創建されたていわれとるバッテン、現在のもんは、永禄3年(1560)に領主の蒲生鑑盛(かまち あきもり)が再建したていわれとる。
桃山期もまだ初期のもんげなケン、簡素整然。屋根は拝殿、渡殿などと相まって社殿全体として流れるごと美しか。
社伝によれば、慶長6年(1601)時の領主田中吉政が社殿の修理ばして、元和7年(1621)に久留米藩主有馬豊氏(ありまとようじ)が社領、燈明田ば寄付し、万治元年(1658)有馬忠頼(ただより)が拝殿ば作り替えたて伝えられとる。
宮大工さんに云わせると、軒は二重垂木で、垂木鼻には透彫りの飾金具ばつけ、棟は箱棟鬼板付きバッテン、軸部に比べて屋根が大きかゲナ。そやケン、前後の流れも妻の出も深うして、落着きのある建物になっとるていう。
構造は簡単バッテン、全体としてすっきりとまとまり。室町建築の力強さばよう表してとるていうはなし。
拝殿の右手に阿曇磯良丸(あづみのいそらまる)の木造が、両手に珠ば持って立つ。
阿曇磯良丸ていえば、志賀島の海人の長でクサ、民間の伝承では、トヨタマヒメの子ていうことになっとる。
神功皇后が朝鮮に行きなるとき、軍船ば用意して行き戻り航海の指揮ばとって活躍した。一説によると、本来は竜宮に住んどるとバッテン、神功皇后から召されたもんやケン、大海亀の背中に乗って、香椎の浜(三韓征伐にはここから出発しなったと)に現れ従軍したていう。
この木造に見るごと、磯良丸は永年海底に住んどったケン、体中に海藻やら貝類がこびりつき「魁偉な風貌」やったいてう。そして、なんとこの磯良丸の直系67代目が、ここのいまの宮司さんゲナ。
神功皇后が無事帰還しなって、少童命ば祀んなったとき、水先案内ば勤めた安曇磯良丸が初代の宮司ば仰せつかって、それが代々続いとうていう訳。
磯良丸が手に持っとる珠は、かぁちゃんのトヨタマヒメから授かった干珠・満珠(かんじゅ・まんじゅ)いうて、潮の満ち引きば自由に出来る不思議な力があったと。
こればあやつって新羅の軍ばやっつけたり、帰りの航海もこの珠があったケン、無事やったとゲナ。
風浪神社五重塔 明治43年に指定された国の重要文化財。
この石造りの五重の塔は、正平10年(1355)の銘があるケン、俗に正平塔(しょうへいとう)て呼ばれとる。
以前は拝殿の前に置かれとったとバッテン、明治になって今の場所に移されたらしか。
石塔の側面に願主・沙弥道慧沙弥道て書かれとるケン、寺からの寄進やったとかもしれん。大工は藤原介嗣(すけつね)て書いてある。
相輪の先が欠けとるバッテン、総高3.3m、屋根は四面いずれも入母屋の形式で、軒裏には樽木が彫られとる。大きな鬼面がふたつ、五層目の屋根には蟠竜も彫刻されとる。 各層の仏龕の中には如来や菩薩、天女の浮き彫りも見える。
相輪(そうりん)いうたら、五重塔の屋根から天に向かって突き出しとる金属製の部分タイ。上から順に宝珠・竜車・水煙・九輪・受花・伏鉢て並んどる。
彫り方は、いたって豪放、塔全体が不均整にもかかわらず、よくこの塔のよさば保っとる。
白鷺の樟(しらさぎのくす)これも昭和35年、国の重要文化財に指定された。
少童命の化身である白鷺が止まったていわれとる大楠で、樹齢約2000年、幹回り8m余、地上2.5mの所から2本に分かれ、枝が横に張って見事なもん。
四方に張った枝の長さは20〜30mはある。
幹には大人二、三人は入れる空洞がほげとるバッテン、樹勢は益々盛んに見えて、神霊が宿る御神木として信仰されとるていう。