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宮司さんなぁ阿曇磯良丸(あづみいそらまる) の直系67代目  「福岡県」の目次へ

 福岡県ばそうつきまわっ(歩き回る)たら、突き当たるとはたいがい神功皇后さんバッテン、ここ大川の風浪神社(ふうろうじんじゃ)もそうタイ。

 ことのいわれは、神功皇后が三韓征伐から勝って帰って来なるとき、海上が激しゅう荒れたもんやケン、皇后が小童三神(ワダツミ)にお祈りして、やっとこっと筑後国の葦原ノ津(いまの大川市榎津)に船ば寄せなった。
 西暦192年のことやケン、いまから1800年も前の話タイ。

 そんとき船から飛び立った一羽の白鷺がクサ、近くの樟に止まったゲナ。これが無事導いてくれたご先祖の少童命(ワダツミノミコト)バイて信じた皇后は、その白鷺が止まった所に、武内宿弥に命じて社ば建てさせ祀んなったと。
 そして約10年後の西暦201年に、いまの地に遷座しなったていわれとる。これが風浪宮の始まりタイ。

 1800年も昔のことの、えらい細こう分かっとるねえて、不思議かバッテン、神社に伝わる縁起ではそげんなっとると。

 だぁーれも見たもんなもう生きとらんとやケン、そらあそれでよかとタイ。

 神様やケン、失礼かバッテン、少童命ちゃなんかいなて思うたら、黄泉の国から嫁さんのイザナミに追い返されて、這々の体で逃げ帰ったイザナギがクサ、海に入って禊ぎばしたところが、次々と生まれなった、ていう神話の神の、そのひとりやった。

 住吉三神もそんときいっしょに生まれとんなるし、アマテラス、ツキヨミ、スサノオやらは弟分になる。
 アマテラスの孫が神武天皇でクサ、そっから数えて14代目の仲哀天皇の嫁さんやった神功皇后からすれば、少童命はムコさんのずーっとずーっと先の先のご先祖さんていう訳タイ。

 なし風浪宮とか風浪神社ていうか分からんけど、
にもにも勝ってきなったとやケン、勝ち運の神、航海安全、商売繁盛の神として、地元では「おふろうさん」の名で永年親しまれてきとる。
 そんときいっしょに生まれとんなる住吉さんとは親戚筋で、専門の守備範囲も一緒で航海の神さんタイ。

 檜皮葺の社殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)、夕陽に映える夕方が美しか。明治40年5月27日、国の重要文化財に指定されとる。

 流造(ながれづくり)いうとは、日本の神社建築様式のひとつで、柱と柱の間が一間やったら一間社流造。ここんとは三間あるケン、三間社流造。

 もともとは、応神天皇の元年に詔勅により創建されたていわれとるバッテン、現在のもんは、永禄3年(1560)に領主の蒲生鑑盛(かまち あきもり)が再建したていわれとる。

 桃山期もまだ初期のもんげなケン、簡素整然。屋根は拝殿、渡殿などと相まって社殿全体として流れるごと美しか。

 社伝によれば、慶長6年(1601)時の領主田中吉政が社殿の修理ばして、元和7年(1621)に久留米藩主有馬豊氏(ありまとようじ)が社領、燈明田ば寄付し、万治元年(1658)有馬忠頼(ただより)が拝殿ば作り替えたて伝えられとる。

 宮大工さんに云わせると、軒は二重垂木で、垂木鼻には透彫りの飾金具ばつけ、棟は箱棟鬼板付きバッテン、軸部に比べて屋根が大きかゲナ。そやケン、前後の流れも妻の出も深うして、落着きのある建物になっとるていう。
 構造は簡単バッテン、全体としてすっきりとまとまり。室町建築の力強さばよう表してとるていうはなし。

 拝殿の右手に阿曇磯良丸(あづみのいそらまる)の木造が、両手に珠ば持って立つ。
 阿曇磯良丸ていえば、志賀島の海人の長でクサ、民間の伝承では、トヨタマヒメの子ていうことになっとる。

 神功皇后が朝鮮に行きなるとき、軍船ば用意して行き戻り航海の指揮ばとって活躍した。一説によると、本来は竜宮に住んどるとバッテン、神功皇后から召されたもんやケン、大海亀の背中に乗って、香椎の浜(三韓征伐にはここから出発しなったと)に現れ従軍したていう。

 この木造に見るごと、磯良丸は永年海底に住んどったケン、体中に海藻やら貝類がこびりつき「魁偉な風貌」やったいてう。そして、なんとこの磯良丸の直系67代目が、ここのいまの宮司さんゲナ。
 神功皇后が無事帰還しなって、少童命ば祀んなったとき、水先案内ば勤めた安曇磯良丸が初代の宮司ば仰せつかって、それが代々続いとうていう訳。

 磯良丸が手に持っとる珠は、かぁちゃんのトヨタマヒメから授かった干珠・満珠(かんじゅ・まんじゅ)いうて、潮の満ち引きば自由に出来る不思議な力があったと。
 こればあやつって新羅の軍ばやっつけたり、帰りの航海もこの珠があったケン、無事やったとゲナ。

風浪神社五重塔 明治43年に指定された国の重要文化財。

 この石造りの五重の塔は、正平10年(1355)の銘があるケン、俗に正平塔(しょうへいとう)て呼ばれとる。

 以前は拝殿の前に置かれとったとバッテン、明治になって今の場所に移されたらしか。

 石塔の側面に願主・沙弥道慧沙弥道て書かれとるケン、寺からの寄進やったとかもしれん。大工は藤原介嗣(すけつね)て書いてある。

 相輪の先が欠けとるバッテン、総高3.3m、屋根は四面いずれも入母屋の形式で、軒裏には樽木が彫られとる。大きな鬼面がふたつ、五層目の屋根には蟠竜も彫刻されとる。 各層の仏龕の中には如来や菩薩、天女の浮き彫りも見える。
 相輪(そうりん)いうたら、五重塔の屋根から天に向かって突き出しとる金属製の部分タイ。上から順に宝珠・竜車・水煙・九輪・受花・伏鉢て並んどる。

 彫り方は、いたって豪放、塔全体が不均整にもかかわらず、よくこの塔のよさば保っとる。

 白鷺の樟(しらさぎのくす)これも昭和35年、国の重要文化財に指定された。

 少童命の化身である白鷺が止まったていわれとる大楠で、樹齢約2000年、幹回り8m余、地上2.5mの所から2本に分かれ、枝が横に張って見事なもん。
 四方に張った枝の長さは20〜30mはある。

 幹には大人二、三人は入れる空洞がほげとるバッテン、樹勢は益々盛んに見えて、神霊が宿る御神木として信仰されとるていう。

 拝殿の前に一対の真新しか灯篭がある。
 始めて行ったときは全然気づきもせんやったっちゃが、二回目の時、この灯篭ば奉納しなった大川の家具職人組合の人が丁度来とんなって、詳しゅう説明ばしてやんなった。
 云われてみればその細工のすばらしかこと。

「この素晴らしさはいわれなワカランですバイ、こらあ大きな説明看板ば立てときなっせ」てアドバイスしといた。
 もし、風浪宮にお参りすることがあったら、これは文化財じゃなかバッテン、見てやってん。

大川の家具職人さん
      自慢の新・灯篭

 場所・大川市。九州自動車道ば八女ICで下りちゃんしゃい。右折して国道442号線ば西へまっすぐ13km(この道はほんなこと筑後平野ば一直線) 「宮内」の信号で右折して300mで左に駐車場。神社は右側。 取材日 2008.04.15

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