専門的にいうと、建物は「宝形造りで屋根は本瓦葺の三間堂。外部様式は唐様、四面勾欄、付斗供は二手先組、垂木は扇垂木」げなバッテン、素人が聞いたっちゃ、なんのこっちゃら全然分からん。三間真四角やケン、三間堂タイ。
内部は柱ば建てず、一部屋のお堂で床が拭板敷きゲナ。内陣の天井は格天井、側壁すべて極彩色の絵と梵字で埋められとるゲナ。格天井(ごうてんじょう)いうたら国宝・冨貴寺の天井と同じ造りタイ。なんでゲナゲナばっかしかいうたら、重要文化財やケン、ここは厳重に鍵ば掛けられとって中が見られんとタイ。
折角見に行った駅長も見たとは外側だけ。それでこの部分は、専門家の話ば受け売り。要するに盗作。
本尊の愛染明王はえん髪、怒目、牙ば剥き出して弓矢ば持ち、忿怒の形相ばしとんなる。で、ここもゲナ。
愛染明王いうたら、インドから来た神様でラーガ・ラージャ。ラーガは赤に染め付けるていう意味やケン、顔も身体も真っ赤っか。
手が6本もあってクサ、必ず1本の手には弓ば持っとんなる。この矢にあたると、恋に染め付けられるていう。そやけん恋愛成就の願掛けで有名。また愛染ていう字から連想して、染物屋さんの信仰も厚か。
ほか堂内には弘法大師真筆の佛画、伝教大師作の佛像、土佐光起筆ていわれとる屏風などもあるていう。
極彩色の天人像や、文様は保存状態も良うて、見応えがあるらしか。鴨居の上の小壁にある天女の像が有名で、天女と聞いたらどうしても見たかったケン、年1回のご開帳に行こうとしたけど今年は都合がつかんやった。
ただ軒下の四隅に天邪鬼と人面の木彫があるとだけは気がついた。この天邪鬼はクサ、なんと左甚五郎が作ったとば、拉致された工匠が、さらに拉致してきたもんらしか。
竹田藩主の名誉のため、竹田市教育委員会の説は「四隅庇の天邪鬼(あまのじゃく)は、日光廟造営の節、名工 左甚五郎の手に成りしものを、藩主請い受け取り付けしものという」ていうことになっとる。
明治以来、風雨にさらされ、見るからに草臥れてきとるもんやケン、建物は現在トタンで上覆いばかけてある。
重文指定やケン、2008年から修復作業ば始めるらしかバッテン、文化庁はの調査では約1億の金がかかるていう。
建坪がたったの15坪でクサ、1億円ていうことは坪600万円以上。まあ、その位の価値があるお堂いうことやろう。
2年の継続工事で、国が7割、県が1割、地元が1割、持主はお寺さんバッテン、檀家が少うては大変やケン、市民にも募金ば呼びかけるていう。
建物内外の彩色ばやり直したら素晴らしかお堂になるやろう。でけたら見に行く計画ば今から立てとかないかん。
願成院ていう真言宗のお寺さんは、寺町の16羅漢のとこから、巾の広か石段ば上がっていった右側にあるバッテン、一見普通の家やった。
この坂の石垣は見事なもんで、なんでもむかし三佐(みさ)の石工が作ったていわれとる。
三佐いうたら、大分市やケン、竹田と何の関係があったとか不思議な感じがするバッテン、16世紀末で大友氏がしまえた後、豊後は小藩に分けられ、大野川左岸は岡藩、右岸は臼杵藩、河口の鶴崎は熊本藩、それで三佐は岡藩やったていう訳。
岡藩は参勤交代やら交易のため、中流域の「犬飼町」と河口の「三佐町」の整備に力ばいれよったらしく、犬飼には藩主の休憩所として御茶屋、年貢米の集荷のための御蔵ば作っとったし、三佐には藩主御座船の船奉行・水主やらが配置されとったゲナ。
それがいま、大分市の東、大野川と乙津川に挟まれた河口の三佐やった。船大工やら職人が多かったらしか。石工の名前までは分かっとらん。
大勝院には8代藩主久貞(ひささだ)が江戸から招いた唐橋君山(からはしくんざん)が建てて住んだていう円通閣もあった。唐橋君山いうたら儒学者で、中国の蘇州寒山寺楼門ばマネして、この長屋式楼門ば建てたていわれとる。屋根の鬼瓦に、寛政7年(1795)の銘が刻まれとるケン、江戸時代中ごろの建築らしか。
君山はこの楼上で「豊後国誌」ば編集し、閑なときには画聖田能村竹田(たのむらちくでん)、儒者伊藤鏡河(きょうが)、角田九華と詩やら、絵画、茶の湯の会ば催しとったゲナ。いうなら竹田藩の文化サロンやった。
寛政4年9月には、九州ば歩いた高山彦九郎もここに2泊したて伝えられとる。いまは市指定有形文化財に指定されとって、毎月第2土曜日に一般公開される。丁度愛染堂の山門の役目ばしとった。
上・願成院の山門も兼ねとる円通閣。この二階に唐橋君山が住んどった。右奥に見えるとが願成院の庫裏。
右・円痛覚の山門。「海西法窟」の扁額がかかっとる。
岡藩と中川家の殿様
荒城の月で有名な岡城(大分県竹田市)の岡藩(おかはん)は、豊後国内の藩の中では最大の藩やった。
藩主中川家の始祖中川清秀(きよひで)は、豊臣秀吉と柴田勝家が天下取りば争うた「賎ケ嶽の戦」で、秀吉方について奮戦し戦死。
その子供に秀政、秀成とふたりおったとバッテン、秀政が後ば継いで摂津の12万石ば領しとった。ところが、文禄元年から始まった朝鮮出兵で、この秀政がこれまたあっちで戦死するっタイ。
それも戦争しよって戦死したのなら、これは名誉の戦死ていうことになって、恩賞もんやったろうバッテン、そうじゃのうてクサ、陣地ば見廻りをしよってゲリラからそ撃されて死んどんなるとタイ。
「大将たる者が先払やら、供も連れんで敵からそ撃されるごたあ所ばうろつくちゃあなんごとか」て、秀吉がかんかんに怒ってクサ、弟の秀成に中川家ば継がせはしたもんの「茨木12万石はやられんケン、豊後に移れ」ていうことで岡藩7万石に格下げさせられて竹田にやって来た訳タイ。
文禄3年(1594) その時の岡藩は、7万石いうても実質は6万4千石で領地は、大野郡犬飼町、三重町の西半分、そしてあと残りの清川村、緒方町、朝地町と宇目町。それから竹田市、直入郡の荻町、久住町、直入町やった。
世渡り上手の秀成は慶長5年(1600) 関ヶ原の戦いで東軍についとったケン、徳川家康から所領ば安堵され、それから一度の移封もなかまま廃藩置県まで中川家は存続しとると。
秀政の孫、第3代藩主の久清(ひさきよ)は、岡山藩ば辞めた熊沢蕃山に来てもろうて、潅漑事業・富国強兵などの指導ば受けたほど藩政に熱心な名君やったていわれとる。
また一方で、この殿様はクサ、九重の大船山が好きで、39歳・44歳・45歳で登り、48歳の時には2回も登るほど山キチやった。なんせ自分の雅号まで入山てつけとったちゃもん。
しかも遺言までしてクサ、大船山中腹の鳥居窪(とりいくぼ)に自分の墓ば造らせとんなると。この墓は入山公墓いうていまも大船山の中腹に岡藩の方ば向いてある。
登山の時は、竹田の城から岳麓寺(がくろくじ)の庄屋まで駕籠で行って1泊。翌日朝から登んなったらしかバッテン、登るいうても自分の足じゃなかと。人鞍いうて強力(ごうりき)が担ぐ背負い子のようなもんに乗ってタイ。いま正確にいえば、これじゃあ登ったちゃあ云われんバッテン、なんせ殿様の道楽やケン、こんなもんやろう。
人鞍に揺られて景色ば楽しみながら、キセルで煙草ば吸うて、鞍ば担いどる強力の頭で、キセルばポンてはたいたなんていう話ものこっとる。いま、林野庁が聞いたら、目ば吊り上げるバイ。
駅長が見た限りでは、墓石がキリシタン墓のごたあ格好しとったケン、ひょつとしたら久清公はクリスチャンやったとかも知れん。いずれにせよユニークなアルペン大名やった。
清秀(きよひで)秀政(ひでまさ)秀成(ひでなり)久盛(ひさもり)久清(ひさきよ)久恒(ひさつね)久通(ひさみち)久忠(ひさただ)久慶(ひさよし)久貞(ひささだ)久持(ひさもち)久貴(ひさたか)久教(ひさのり)久昭(ひさあき)久成(ひさなり)て続いた岡藩は、明治4年(1871) 廃藩置県で岡県てなって、のち、大分県に編入されたいうワケやった。
岡藩主としては秀成を初代としとるケン、愛染堂建てた久盛は2代目。山好きの久清は3代目にあたる。
下左・くじゅう大船山の中腹に、岡藩の方ば向いて眠る入山公。
下右・どうも墓の格好がキリシタン墓に似とる。
左上・深い軒先の木組みは美しか。
左・真言宗の開祖・空海は弘法大師ていわれとって、本名は佐伯眞魚(さえきの まお)、愛称がお大師さん。信者は大師がいまも生き続けとって「南無大師遍照金剛」て唱えれば、願いば聞いてくれるて信じとる。だからここの扁額は遍照殿。
左下・この石坂の上が願成院。立派な石垣。
右列・左甚五郎作て伝えられとる軒下の彫りモン