このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

板石にイラストで彫られた浄土教の教え      「大分県」の目次へ
 県指定有形文化財

 青宇田(あうだ)の画像石ていうとは、南北朝時代の末期(1390年〜)将軍足利義満の頃、ここ青宇田にあった延命寺の僧一道と道念(他5名の願主)が、当時の浄土教の教えば絵巻物風に板状の石に線刻したもの。

 大きさはそれぞれ1m角内外。板状の角閃石安山岩(剥離石)94枚に、願文・十三仏・十王庁展開図・弥陀の来迎図・六地蔵・阿羅漢像などば丁寧に線刻してある。

 絵には至徳2年(1385)明徳2年(1391)の銘があって、作られた時代が600年も前やったいうとが分かっとる。

 もともとこれらの画像石は、いま収蔵庫のある背後にあった寺院で作製され、崖にはめ込まれとったとらしかバッテン、ほったらかされて、のうなったもんもあるらしか。長年の風雨にさらされて画像の摩滅がひどく、なんがなんやら判読が難かしゅうなりよったらしか。

 それで、地元住民が「こらあ、珍しかもんやケン、どげんかせないかん」いうて、手厚い保護ばつづけてきた甲斐あって離散せず残っとったいう訳。県も気がついて、昭和33年になってやっと大分県の有形文化財に指定した。

 絵図は、当時民衆の間で広く信仰されてとった浄土教の教えば、経典に従って描いてあるとゲナ。地獄やら極楽の有様ば示すことによって、人の生き方は戒めたり、教えたりする意味がこめられとるていう。絵で教えれば文盲やった大衆にも、効果があったとかも知れんタイ。

 最近収蔵館が新しくできて、内部には画像石94枚のうちの43枚が展示してあるほか、イメージ図や石の解説ば載せた説明板も設置されとる。 収蔵館は無人で、人が入ると照明が点くしかけになっとって、いつでも自由に見ることがでける。けっこう広いタダの駐車場も道そばにある。入場無料で開いとるとは9:00〜17:00。

 建造物中心にしとる「九州遺産」で、これは建造物とは云えんやろうバッテン、国東半島にある石造美術品の中でも珍品やケン、取りあげたと。

右・建物裏の崖下には、「青宇田石像四天王」いうとがあって、これは市指定有形文化財。

左・同じ敷地内には板石状の仁王像もあり、かつては寺院やったことが想像できる。近くには古墳群(穴瀬横穴古墳群・県指定)もあるらしかケン、このへんは大昔からひとの住んどったとバイ。

上2枚・無人の収蔵庫兼展示場。最近整備されたと見えて新しい。地元の人が管理しよるとみえてきれいにしとる。下2枚・「阿羅漢図」釈迦の教えば元に修行ば重ね、煩悩ば断って知識は豊富、一般の人から供養ば受けるまでになった聖者たちが描かれとる。
 これらの聖者は人として最高とされとるケン「阿羅漢」ていわれとったと。
 一枚の石版に3〜5体がかかれとって、全体としては500羅漢が揃うとったっちゃなかろうかていわれとる。
右・割れたり、光りの具合では線が見えんごとなって、なんが描いてあるとか分からんようなともある。

そんなら浄土教思想ちゃなんかいなていうことやが
 浄土教いうとは、日本に7世紀前半に伝えられとると。
 平安時代の浄土思想は主に京都貴族の信仰でやったとバッテン、空也上人(903年〜972年)が町に出て、一生懸命庶民に対しても浄土教ば広め「市の聖」て呼ばれとんなった。

 平安末期から鎌倉時代に入ったら、法然上人(1133年〜1212年)が
浄土宗ば開き、根本経典として「仏説無量寿経」、「仏説観無量寿経」、「仏説阿弥陀経」の「浄土三部経」ば制定して基礎ば固めなった。

 法然上人の弟子の親鸞上人(1173年〜1262年)は、浄土教の教えば継承発展させ、後に
浄土真宗の開祖となんなった。また一遍上人は(1239年〜1289年)は、諸国ば遊行して時宗ば開きなった。これみーんな同じ浄土教の教えタイ。融通念仏宗てもいう。

 他力本願じぁあるバッテン、とにかく念仏ば唱えて阿弥陀さんにおすがりしなさいていう
、教義は大衆の心ば掴んで発達ばとげ、日本の仏教における大勢力になっていまに至っとるとタイ。
 いまでも、真宗がいちばん信者数の多かっちゃなかろうか。

 場所・豊後高田市美和。宇佐市から国道10号線「岩崎」信号で豊後高田市へ左折。3km走り豊後高田の中心「新地」信号で右折。市役所前ば通過して県道29号を道なりに3kmで左に案内看板と広か駐車場がある。取材日 2007.8.21

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