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トーマス・グラバー 功労者か ?  悪徳商人か ?    「長崎県」の目次へ
明治日本の産業革命遺産登録      

 今年(2015年)「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録された8県23施設の中に、長崎の観光名所グラバー邸が含まれとる。
 なんでグラバー邸が産業遺産や ? 観光遺産なら納得するバッテン、て疑問が湧くやろう。

 建物はともかく、ここに住んどった人間が明治日本の産業に大きな影響ば与えたもんやケン、登録された訳。
 その人間ちゃ誰や ?

 トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover)いう、スコットランド出身の商人タイ。
 このトーマスさん、沿岸警備隊の1等航海士トーマス・ベリー・グラバー(Thomas Berry Glover)とメアリーさん(Mary)の間に、8人兄弟姉妹の5人目として生まれとんなる。

 学校ば卒業した後、1859年に上海へ渡り「ジャーディン・マセソン商会」いうとに入社。同年(安政6年8月)、鎖国ば解いて開港後まもない長崎に移ってきて、2年後には「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店として
「グラバー商会」ば設立し、貿易業ば始めた。グラバー21才の若さやった。

 当初は生糸や茶の輸出ば中心に商いしよったとバッテン、江戸時代末期の文久3年8月18日(1863)、会津藩・薩摩藩ば中心とした公武合体派が、長州藩が中心の尊皇攘夷派ば京都から追い出したクーデター事件の後の政治的混乱に着目して武器商人に変身した。


 そして薩摩・長州・土佐ら討幕派ば支援し、武器やら弾薬ば売りつけ、亀山社中とも取引ばしだした。

 ところで聞くバッテン、亀山社中とはなんか知っとるね ?

 亀山社中ば説明するためには、坂本龍馬のことば話さないかん。

 龍馬は土佐国高知城下(現在の高知市)に生まれ、江戸で剣術や砲術の修業ばしたあと、帰国して土佐勤王党に加盟した。

 その後土佐ば脱藩して幕臣・勝海舟の門人となり、勝塾や神戸海軍操練所で学んどる。

 ところが元治元年(1864)以降操練所が閉鎖されたもんやケン、脱藩者の龍馬と同志たちは薩摩藩に保護され、鹿児島ば経由して長崎にやってくる。

  そして、慶応元年(1865)夏ごろ、薩摩藩やら長崎商人・小曽根(こぞね)家の援助ば受けて、日本最初の商社ていわれる「亀山社中」ば結成した。

 この団体は、龍馬たちが最初に店ば構えた場所の名前「亀山」と、仲間ば意味する「社中」とばあわせてそう呼ばれた。亀山社中の最大の業績は、慶応2年(1866)に、長州藩のために薩摩藩名義で大量の小銃やら蒸気船ユニオン号(桜島丸・乙丑丸)ばクサ、「グラバー商会」から購入して日本への持ち込みに成功したこと。

 このことが、慶応2年(1866)1月の薩長同盟へとつながり、新しか時代ばひらく明治維新の足がかりになったとタイ。

 また、薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長澤鼎たち若手の海外留学、長州五傑のイギリス渡航の手引きもしとる。そのウラには常にグラバーの動きがあったに違いなか。

 
「クラバー商会」は明治維新のあとも、造幣局の機械輸入に関わるなど明治政府との関係ば深めて商売しよったが、維新があっさりと片付いて武器が売れんごとなったり、諸藩に貸しとった金の回収が滞ったことで明治3年(1870)、グラバー商会は破産してしもうた。

 グラバー自身はどうしたかて云うと、佐賀藩との合弁で開発しとった高島炭鉱の経営者として日本に留まり、明治14年(1881)、三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱ば買収してからも所長として経営に当たっとった。

 また明治18年(1885)以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、倒産しかかっとったスプリング・バレー・ブルワリーの再建ば岩崎に勧めたりしとる。これが後の麒麟麦酒になっとるていう訳タイ。
 今度いっしょに世界遺産登録された、長崎の小菅船工場(史跡)ば造ったともグラバーやった。

 
長崎の外人居留地にグラバー邸ば建設したとは、商会設立後、3年のことやったていう。

 長州の伊藤博文、薩摩の五代友厚、亀山社中・海援隊の坂本龍馬、三菱の岩崎弥太郎など幕末から明治にかけて活躍した人物が続々とグラバー邸の隠し部屋ば訪れたとやろう。

 ここでグラバーと最も深い関係やった人物の1人で、龍馬ばグラバーに紹介した薩摩藩の家老・小松帯刀(たてわき)と邸内の高台から長崎港ば見下ろし、小菅修船場の建設やらば話し合うたに違いなか。

 晩年は東京で過ごし明治41年(1908)日本の近代化に大きく貢献した功績が認められ、外国人としては破格の勲二等旭日重光章ていう栄誉ある勲章ば授与されとる。

 当時、外国人に対して勲章ば授与するなんていうことは異例なことやったゲナ。

 
そのグラバーが死んだとは、明治も末の44年(1911)。
 墓は長崎市内の坂本国際墓地にある。ツルといっしょに埋葬されとって、息子の富三郎夫妻の墓とは隣同士になっとる。

 グラバー邸は、日本人の妻ツルとの間に生れた倉島富三郎が継いどったバッテン、昭和14(1939)年から三菱の所有になった。

 なし三菱が買い取ったとか ?
 その理由はグラバー邸からやったら、対岸の造船所が丸見えになってしまうけんタイ。

 戦艦「武蔵」の建造ば始めとった造船所にとって、秘密ば保持する上で絶対やった。

 以来、グラバー邸は三菱が管理しとったけど、造船所(長崎溶鉄所)設立から100年目の昭和57年(1982)、長崎市に寄贈され今日まできとる。

 昭和36年(1961)には国指定重要文化財になった。

 建設年代は主屋から発見された墨書により文久3年(1863)ということが分かっとる。木造洋風建築としては現存する日本最古の遺構ということになるとゲナ。棟梁は大浦天主堂等ば請負うた天草の小山秀(こやまひいで)やったて云われとる。

 
グラバー邸は、木造平屋建、屋根は多角形の寄棟造、桟瓦葺き、建築面積510.8平方メートル。附属屋は木造平屋建、桟瓦葺き、建築面積129.2平方メートル。住宅の主屋は、建築当初の平面は逆L字型やったらしかバッテン、その後の増築で、逆L字型からT字型に変わり、さらに四つ葉のクローバーのごと広がっていっとる。

 英国のコロニアル様式と日本の伝統的な建築技術の合いの子で、日本瓦や土壁ば使い半円形の寄棟式屋根、石畳の床面に木製の独立円柱があり、柱間には吊束を持つアーチ型欄間、化粧軒、木造菱格子の天井を持つ広いベランダが特徴ていわれとる。

 昭和42年度(1967)に長崎市による修理が完了し、いまは明治20年代の姿に復元されとる。

 そして今度、明治日本の産業革命遺産として、UNESCOの世界遺産リストに登録されたていう訳タイ。これでまた箔がついて、観光客もどっと増えるやろうし、めでたしめでたしバッテン・・・・駅長の見方はちょっとちがう。

明治維新最大の黒幕はグラバー、死の商人タイ。

 グラバーの背後にはアヘン戦争の仕掛け人の大商社、ジャーディン・マセソン商会がおった。
明治維新も坂本龍馬が仲介したていう薩摩・長州連合だけでは無理。

 その影にはグラバーがうごめいとった。彼の目的はなんやったとか ? 倒幕の戦争ば起こさせて、日本ば混乱させ武器ば売ることやった。

 グ
ラバーの手引きで、長州の伊藤や井上などの5人がこっそりヨーロッパに渡っとる。薩摩の五代友厚ら17人ヨーロッパに密航しとる。上海にも長州の藩士らがたびたび出国しとる。これらはすべてグラバーの仕掛け。

 グラバー商会から7800挺の銃ば買い付け、弾薬ともども薩摩藩に売りつけとる。その仲介役が龍馬の亀山社中と海援隊やった。
グラバーは龍馬ば利用して幕府の目ばごまかしとった。竜馬はグラバーの隠れ蓑にされとった訳よ。

 倒幕ていう革命は、グラバーとその背後の英国なくして成功はなかった。その証拠に英国大使ハリー・パークスも薩摩の後ろ盾やった。薩摩と長州の集会所はグラバー商会やった。と言うことはグラバー邸で密談しょった訳よ。

 龍馬が突然、倒幕派から公武合体派に変わったとは、グラバーの大きな陰謀に利用されとるとに気付いたけんタイ。そしたらとたんに龍馬は暗殺された。暗殺の実行犯はわからんバッテン、暗殺の背後におったとはグラバーやったに違いなか。

 いや、もうひとり、岩崎弥太郎。こいつが1番怪しか。こいつが三菱財閥の創始者タイ。ろくなヤツじゃなか。岩崎とグラバーの関係が三菱財閥ば創ったていうてヨカくらいつるんどった。

 大日本帝国の支配者もグラバーやった。日清戦争、日露戦争におけるグラバーファミリーの活躍。明治時代の元勲のほとんどはグラバーがヨーロッパへと密航させた顔ぶれやった。
ペリーが日本ばこじ開け、そこへグラバーがやってきた。これが日本の不幸やった。

 クラバー邸が世界遺産になったとい、それば作ったクラバーのことばこき下ろす。

 丁度、登録前に韓国が、三池炭坑の強制労働のことで、クレームばいうたとと一緒。

 歴史はそん時の政権に都合の良かごと書き換えられていくとタイ。

日本で初めて走った蒸気機関車

 慶應元年(1865)、グラバーは長崎の大浦に400メートルのレールば敷き、上海から輸入した蒸気機関車「アイアン・デューク号(鉄の侯爵ていう意味)」ば走らせた。

 長崎のもんはこれば見てびっくり、そらそうタイ。
 これが日本で初めて走った蒸気機関車やもん。新橋〜横浜間に日本初の鉄道が開設される7年も前のことやった。

 人ば乗せて運ぶ営業が目的じゃなく、クラバーが自分の商売ば売り込む話題作りのデモンストレーションばしたとやろうバッテン、この試走が日本近代化の先駆けになったことだけは間違いなか。

↑運上所いうとは明治政府が開港した港に置いた輸出入貨物の取締りやら関税の徴収などばした役所。今で云うたら税関にあたる。

←いまの大浦海岸通り。左が長崎港。グラバー邸は右手の丘の上にある。

 明治日本の産業革命遺産 赤字はこのHPで紹介済み。

1 萩     1 萩反射炉
      2 美須ケ鼻造船所跡
      3 大板山たたら製鉄遺跡
      4 萩城下町
      5 松下村塾
2 鹿児島  
6 旧集成館(旧集成館反射炉跡、旧集成館機械工場、旧鹿児島紡績所技師館)
      7 寺山炭窯跡
      8 関吉の疎水溝
3 韮山    9 韮山反射炉
4 釜石   10 橋野鉄鉱山・高炉跡
5 佐賀   
11 三重津海軍所跡
6 長崎   
12 小菅修船場跡
      13 三菱長崎造船所第三船渠
      14 三菱長崎造船所ジャイアント・カンチレバークレーン
      15 三菱長崎造船所旧木型場
      16 三菱長崎造船所占勝閣
      17 高島炭鉱
      
18 端島炭鉱→軍艦島
      
19 旧グラバー住宅
7 三池   20 三池炭鉱・三池港(三池炭鉱宮原坑、三池炭鉱万田坑、三池炭鉱専用鉄道敷跡、三池港)
      21 三角西(旧)港
8 八幡   22 官営八幡製鉄所(八幡製鐵所旧本事務所、修繕工場、旧鍛冶工場)
     
23 遠賀川水源地ポンプ室

 場所・長崎県長崎市南山手町8番1号。九州自動車道から長崎自動車道と走り、終点から続けて「ながさき出島道路」に入る。3.4kmの出島道路ば出たら電車通り(国道499号線・大浦海岸通り)ば左折するとば約700mで「大浦署前」信号。その左がわ山手一帯が「グラバー園」  取材日 2008.02.14

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