このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

台風の度に堤防が切れはせんどかて心配した干拓開発の歴史   「熊本県」の目次へ

 熊本県の有明海沿岸の地図ば見てみんしゃい。岱明町から玉名市の横島町、熊本市の白川河口、宇土半島の南の竜北町から鏡町。八代市の球磨川河口まで海にせり出しとうとこは全部が干拓地タイ。

 過去300年間に作られた干拓の面積は、約24000町歩。この広さは見当もつかんバッテン、これは熊本県下の水田総面積のおよそ三分の一にも当たるゲナ。特に遠浅の干潟に恵まれた八代の干拓地は、走っても走っても干拓で広かぁーっ。

 八代の市内ば西に走ったら、不知火海に面した八代外港に突き当たる。外港近くの大島石油基地付近から東側ば眺めたら、竜峰山の山裾から数キロにおよぶ広大な耕地が広がっとって、全国一の生産量ば誇るイグサがクサ(ここダジャレ)、見渡すばかりに作付けされとるとが分かる。

 初めてここば見るもんは、信じられんやろうバッテン、この八代地方の平野のほとんどは、干拓により人工的に作り出された土地げなバイ。平野に点在する小高い山は、干拓以前は海中の島やったと。人間の長か間の努力でいつしか陸続きになったていう訳タイ。そらあ、気の遠くなるごたあ作業の賜り物て云える。

 これば八代郡築干拓ていう。国や県じゃのうて郡が主体として実施したケン、郡築タイ。明治32年に着手。明治37年(1904年)に完成した。その広さ約1060ヘクタール(約千町)にもなる一大事業やった。

 干拓地は一番町から十二番町まで区切られ、農業地帯の三番町・七番町・十一番町に樋門が設けられた。

 樋門ちゃなんな。簡単にいえば開閉できる水門のこっタイ。
 満潮時には海水の逆入ば防ぎ、反対に干潮時には干拓の水ば排水する役割ば持っとるケン、樋門いうとは、干拓の要ていわれとると。

 工事が終わって干拓地が耕地に変わっても、干満のたびごとに水門の戸がうまく機能しとるかどうか、常に細心の注意がいる施設ていう訳よ。

 この三番町樋門は、干拓地の三番町に築かれたケン、この名前が付いとるとタイ。
 郡築干拓の樋門としては、三箇所あったとバッテン、明治33年(1900)に造られたこの三番町樋門だけがいまに残っとる。

 10連アーチが大きな特徴で、天端幅約33m、高さ5.5mの石造。本体部分は砂岩切石積で、呑み込み口は赤レンガばアーチ状に積んで、明治期の洋風建築のごたるデザインになつとる。

 こげな樋門は全国にも殆ど例がなかていう貴重なもんゲナ。

 郡築干拓の設計は、当時熊本県技師やった川口虎雄で、工事請負人は愛知県の棟梁 服部長七。

 三番町樋門の施工は、熊本の石材会社が当時の金額12,590円で請けたていう。

 また二番町樋門は、昭和11年の高潮で、従来の樋門が崩されたケン、昭和13年(1938年)に建設されたもので、巾13m、3連アーチの重厚な造りと、船形ばした水切りが大きな特徴になっとる。波受け隔壁ともちゃーんと残っとって、残存状況はとても上等。

 郡築干拓の二つの樋門は、近代の土木遺産として、平成10年にいずれも国の登録有形文化財に指定された。

 文化財にもいろんなもんがある。贅ば尽くした建造物やら美術工芸品も、そらあそれで見事なもんじゃあるバッテン、こげな質朴か干拓関連施設は、まさに自然と闘うてきた祖先の汗の結晶タイ。

 その厳しか生きざまば我々に教えてくれる生きた文化財ていえるっちゃなかやろか。

郡築二番町樋門

 場所・熊本県八代市。九州自動車道ば八代ICで下り、国道3号線へ出たらすぐの信号ば右折する。真っ直ぐな干拓の道ば灼9kmで突き当たり左折。100mほどの左手を注意する。さらに200mで、二番町樋門がある。  取材日 2007.9.25

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