それにしても長崎の観光上手にはあらためて呆れかえるバイ。
石炭ば掘るだけ掘ってクサ、石炭の時代が過ぎたケンいうてなんもかんも壊してしもうてほったらかしとった島ばクサ、あっという間に年間40万人が来る観光地にしてしまうとやケン、こらぁたまがらずにはおられん。
その島の名は「軍艦島」
それも大正10年(1921)に当時三菱重工業長崎造船所で建造した日本海軍の戦艦「土佐」に似とるいうてコジツケた名前タイ。
もともとこの本名端島(はしま)いうとは、長崎市の旧高島町にあった島で、かつては海底炭鉱によって栄えとった。
狭ぁか島に炭坑夫やらその家族が密集したもんやケン、一時は東京以上の人口密度やったゲナ。
それがクサ、石炭が石油に変わって売れんゴトなったもんやケン閉山。島民もみーんな島ば離れてしもうたケン、無人島になっとった。
それが最近、観光資源として息ば吹き返したていう訳よ。
長崎港ば出て約30分で軍艦島に到着。途中「女神大橋」と「伊王島大橋」の下ば通り抜ける。
端島は何処にあるとかていうと、上の地図ばみてつかあさい。
長崎港から南西の海上約17.5キロメートルにある。
長崎半島(野母半島)からは約4.5キロメートルしか離れとらんケン、ちょうど正面になる対岸の野母崎水仙の里公園からは、天気が良ければすぐそこのごと見える。
この端島もともとは今の3分の1しかなか小さな瀬やったていう。
その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州ば、明治30年(1897)から昭和6年(1931)にわたる6回の埋め立て工事で拡張していま端島になったとゲナ。
今の大きさは南北に約480メートル、ガイドのおねえさんは女神大橋ばくぐりながら「南北はちょうど女神大橋の長さといっしょで、東西は女神大橋の支柱の高さとおなじ約160メートルです」て上手に説明しよんなった。
海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で覆われとる。海岸線の全長は約1200メートル。
島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走り、その西側と北側および山頂には住宅などの施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設があった。
いつの頃から端島ていいよったとかは分からんバッテン、「正保国絵図」いうとには「はしの島」て、「元禄国絵図やら「天保国絵図」にも「端島」ていう記録が残っとるらしか。
端島でだれが石炭ば発見したとかは、ハッキリいうて分からんバッテン、一般には文化7年(1810)のことていわれとる。今からいうと200年も前のことタイ。
佐賀藩の覚え書きによると、宝暦10年(1760)に佐賀藩深堀領の蚊焼村と、幕府領の野母村・高浜村が端島・三ツ瀬の領有ばめぐって争いになり、そんときどっちも「以前から自分達の村で葛根掘り、茅刈り、野焼き、採炭ばしてきた」て言い張り、特に高浜村は「40年も前に野母村の鍛冶屋勘兵衛が見つけ、高浜村とともに採掘して、長崎の稲佐で売り歩いとつた」て言い立てて引かんやったゲナ。
いずれにせよ江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」いうて、ごく小規模に露出炭ば採炭しよったらしか。明治2年(1869)には長崎の業者が採炭に着手したもんの、1年もせんで廃業し、それに続いた3つの会社もふの悪かことに、台風にやられて廃業に追い込まれた。
それなのに懲りもせんで掘ったやつがおってクサ、36メートルの竪坑がやっと完成したとが明治19年(1886)のことやったゲナ。
これが今の第一竪坑タイ。懲りもせんで掘ったやつはだれかていうと、鍋島藩の飛び地・深堀領主の鍋島孫太郎タイ。やっぱあ佐賀んもんなぁがまだす(頑張る)バイ。
明治23年(1890)その鍋島孫太郎が、なしか理由は分からんけど、端島ば10万円で三菱の会社へ譲渡。
端島はそれ以来ずーっと100年以上にわたって三菱の私有地となっとった。
三菱のもんになってからは、第二竪坑と第三竪坑が開発され、端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱ば抜くまでに多なった。
この頃になると三菱は社船の「夕顔丸」ば就航させ飲料水供給ば開始、尋常小学校も建てて鉱員の住環境ば整備していった。
大正5年(1916)には、ここに日本で最初の鉄筋コンクリート造りの集合住宅「30号棟」が建設された。
それで当時のマスコミ大阪朝日新聞が端島の外観ば「軍艦のごたる」て報道したもんやケン、長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中やった日本海軍の戦艦「土佐」に似とるいうて記事に「軍艦島」て書いとるとタイ。
それから「軍艦島」の通称が使われ始めたらしか。
左上・島のいちばん北にある小中学校の校舎(70号棟)。
左下・7階建てで5階と7階が中学校。6階が講堂などやったゲナ。
バッテン、この頃の端島はまだ鉄筋コンクリート造りの高層アパートは少なく、大半は木造の平屋か2階建ての社宅ばっかしやった。
大正の頃から徴用された朝鮮人労働者が増え、第二次世界大戦中には500人から600人ほど、自由渡航で来た所帯持ちの朝鮮人労働者も80人ほど働いとったゲナ。中国人労働者も、200人が徴用されたり、給料や食事などの好条件で騙されてやってきた労働者も多かったらしか。
ところが来てみるとどっこい、好条件はウソで、劣悪な労働環境に耐えられんで「島抜け」(泳いで島ば脱出すること)やら自殺ばする者が続出した。
朝鮮人の場合は島抜けが多かったげなバッテン、実際に「島抜け」に成功したもんは少なく、ほとんどが溺死するか、警察に捕まって連れ戻され、見せしめのため拷問にかけられたていう。
対岸の野母半島の住民は、端島や高島から労働者たちが逃げ出してくるとば見て、それらの島ば「監獄島」て呼んどったゲナ。
終戦の直前、昭和20年(1945)6月11日にアメリカの潜水艦「ティランテ」いうとが、端島に停泊しとった石炭運搬船「白寿丸」ば魚雷で攻撃して撃沈させた事件があった。「米軍が端島ば本物の軍艦と勘違いして魚雷ば撃ち込んだ」という噂話が長崎の街に流れたていう。
端島炭鉱は良質な強粘炭が採れたもんやケン、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化ば支えてきた炭鉱のひとつやった。出炭量がいちばん多かった昭和16年(1941)には約41万トンもあったていう。
島の人口がいちばん多かったとは昭和35年(1960)で、なんと5,267人がおったゲナ。人口密度は1キロ平方mに83600人。これは世界一ば誇っとった東京特別区の9倍以上やった。
炭鉱の施設は住宅のほか、小中学校・店舗・病院・寺院・映画館「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などなんでも揃うとった。ただし火葬場と墓地、公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に建設されとった。
ところがそれだけ栄え、活気のあった端島も、昭和35年(1960)以降は、主要エネルギーの石炭が石油への移行(エネルギー革命)したもんやケン、いっぺんに衰退。ついに昭和49年(1974)1月15日に閉山した。
閉山時に約2,000人にまで減っとった住民は4月20日までに全て島ば離れ、端島はとうとう無人島になってしもうた。て、いう訳。
島はずーっと三菱マテリアルが所有しとったバッテン、平成13年(2001)、高島町に無償譲渡され、市町村合併で、今は長崎市に継承されとる。建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多かったケン、島内への立ち入りは長らく禁止されとった。
平成17年(2005)8月に報道関係者だけ限定で特別に上陸が許され、荒廃が進む島内各所の様子が各メディアで紹介された。
各メディアが長崎市の思惑通り、書き立てたり映像ば流したりしたもんやケン、「軍艦島」への全国の感心が高まった。
ほくそ笑んだ長崎市は、島内の建築物はまだ危なかもんの多かバッテン、ある程度安全なごとそそくって、2008年に「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」ば成立させ、島の南部に整備された見学通路に限り見学でけるごとした。
このあたりが観光で生きる長崎市の官民で抜け目のなかところタイ。
平成21年(2009)4月から観光客が「軍艦島」に上陸・見学できるようになった。
解禁後の1か月でなんと4,601人が端島に上陸したていう。その後も、半年間で34,445人、1年間で59,000人、3年間で275,000人。 2013年8月には、上陸開始から4年半で40万人ば突破した。
軍艦島上陸ツアーによる長崎市の経済波及効果は65億円に上る。
ただし、上陸のためには風や波などの安全基準ば満たしていることが条件。
風速が秒速5メートル超、波高が0.5メートル超、視程が500メートル以下のいずれかに該当する場合には、ドルフィン桟橋が利用できず上陸できん。
長崎市は上陸できる日数ば年間100日程度て見込んどる。
現在、「軍艦島」へのツアー会社が4社。
高島海上交通の「軍艦島クルーズ」・シーマン商会「軍艦島ツアー」・やまさ海運の「軍艦島上陸・周遊コース」・軍艦島コンシェルジュ「軍艦島上陸・周遊コース」がある。
左上2枚・石炭ば船積みした桟橋の跡。
下・東から見た島の全景。
右端が学校とグランド。
いちばん高いとこに端島神社があった。
ドルフィン桟橋は左端に近い。
上の2枚は対岸の野母半島「野母崎水仙の里公園」から撮した軍艦島。
天気さえようてPM2.5がなければ「おーい」いうたら声が届きそうな感じ。望遠レンズで引っぱれば、ある程度細部まで見える。「そんなら高い金払うて行かんでもよかろうもん」なんてケチな男のいうセリフ。
桟橋の待ち時間ば利用して、クルーズ船は島の西側に回ってくれる。午前の便は逆光になるバッテン、午後の船やったら間近まで近寄ってくれるケン、よう細部まで見える。
右・第1見学ポイントは主に採炭関連施設。
下・当時使われとった通路。
上・第2坑口と選炭機のあった跡。
左・第2見学ポイント。赤煉瓦と後ろの建物は総合事務所の跡。
右・第3見学ポイントへ移動中。。
下・仕上げ工場のあった跡。この左手に「30号棟」の建物がある。