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軍艦沈めた防波堤。正式には響灘沈鑑護岸 「福岡県」の目次へ | |
軍艦防波堤。正式名称は響灘沈艦護岸。左が洞海湾で奥に若戸大橋と帆柱山が霞んどった。 | |
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経過報告はそんくらいにして、本題に入る。まず軍艦防波堤がどこにあるかは地図ば見ちゃんしゃい。洞海湾から若松港に入ってくる入り口の右手、鶴丸海運の貯木場ば仕切っとる岸壁にある。 太平洋戦争で負けたあと、旧日本海軍の艦艇は殆どが戦争の賠償として、連合国に引き渡されるか解体されるかした。バッテン、何隻かの艦艇は解体された船体が防波堤の代わりとして利用されたていう。 上・裏というか西側から見た防波堤。一段高うなっとるとこが「柳」のせんたいやったとこ。 もちょつと詳しゅう歴史ばたどると、沈めたとは昭和23年(1948)、船体のなかには岩石やら土砂ば詰めてコンクリートで固められた。沈めた当初は船で渡らな行かれんやったとバッテン、どうしたことかこれが観光名所になり、水ノ上に出とる船首の内部にも入れたらしか。 初めてのところやケン、地図はちゃんと準備して下調べ。だいたいどう行けばいいかていう見当ばつけて出発した。 若松駅までは駅前に保存しちゃるキューロクばいつも撮しに行きよるケン、問題なし。 若戸大橋取り付け道路の下ばくぐって、若松市役所前ば直進、左さいカックンカックンて2度曲がって「安瀬」の信号で左折、洞海湾の運河にかかった橋ば渡れば、そこは埋め立て地の北九州エコタウン。 ここまではよかったとバッテン、若松港の入り口に向いた海岸やケン、て、東へ走ったら突き当たって金網がトウセンバッチョ。 迷うたら元にもどれの基本に従うて西部ガス北九州工場の角まで戻る。東がだめなら真っ直ぐ北へ走ったら今度は岸壁に突き当たった。 そこには何人かの釣り人が糸垂れとったケン、こそーっと「軍艦堤防はどっでっしょうか」て聞いたら、「この辺りは企業が進出してきて変わってしもうたケン、そらあもうフェンスで囲われてしもうて行かれん」て答えが返ってきた。 ダメなら諦めは早か。ほかを回って帰ってから、北九州市港湾局にメールした。 翌日、官庁にしては珍しゅう早々に返信があって、親切な矢印付きの地図ば送ってくれた。しかも「自由に出入りでけます」てある。 「あの釣り人め、ウソこきやがって、覚えとれ」て、文句云うたっちゃしようのなか。 「こら また行かないかんバイ」て、物好き太郎がぬかしやがった。 2回目は地図のお陰でなんの問題も無く一発到着。天気は良かったし、珍しか取材がでけました。 今見ると「ここに防波堤やらいらんめぇーもん」て、思うバッテン、それは北側の響灘が埋め立てられて防波堤の役割が終わったからで、以前は洞海湾ば響灘の荒波から守るために必要やった。 3枚継ぎのパノラマやケン、岸壁が左右に分かれてV字形に写っとるけど、本当は一直線の岸壁。写真のウソ。 駆逐艦「柳」は大正6年(1917)の建造、全長は約88m。大正期の旧式駆逐艦で、昭和15年には除籍されとって、太平洋戦争には参加しとらん。 休日の防波堤、よく釣れる場所と見えて、家族連れも含め釣キチが多か。駆逐艦の堤防なんてだあーれも気にせんで、釣った魚に歓声が上がる。 上と下の4枚。北に頭ば向けとる軍艦防波堤。いまは側面ばコンクリががっちりと固められた駆逐艦「柳」だけしか見ることはでけん。 | |
場所・北九州市若松区響町。行き道は本文と地図ば見ちゃんしゃい。 取材日 2006.1.31〜2008.4.22 | |
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