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軍艦沈めた防波堤。正式には響灘沈鑑護岸    「福岡県」の目次へ

軍艦防波堤。正式名称は響灘沈艦護岸。左が洞海湾で奥に若戸大橋と帆柱山が霞んどった。

 
 若松の港に、軍艦ば沈めて堤防にしとるところがある。て、聞いたもんやケン、例によって駅長の頭に巣くうとる「物好き太郎」がクサ「行こう行こうや」ていいだした。いっぺん云いだしたら後には引かんことばよう知っとるケン、しぶしぶ駅長がスズキば運転してついていく、いつものバターンタイ。

 経過報告はそんくらいにして、本題に入る。まず軍艦防波堤がどこにあるかは地図ば見ちゃんしゃい。洞海湾から若松港に入ってくる入り口の右手、鶴丸海運の貯木場ば仕切っとる岸壁にある。
なしこげなとこに軍艦ば沈めて堤防にしたとか。

 太平洋戦争で負けたあと、旧日本海軍の艦艇は殆どが戦争の賠償として、連合国に引き渡されるか解体されるかした。バッテン、何隻かの艦艇は解体された船体が防波堤の代わりとして利用されたていう。
 そのひとつがここの軍艦堤防タイ。

 運輸省の港湾局が作った長さ770mの若松港防波堤のうち約400mが、駆逐艦「涼月・冬月・柳」の3隻ば沈めて作られたていう。

 作った当初は船体そのものがクサ、防波堤の役割ば果たしとったっちゃが、だんだん腐ってきたもんやケン、埋めたり周囲ばコンクリートで固めたりして使うてきたいう訳。

 ところが最近、文化財としての価値が見なおされだして、土木学会の「近代土木遺産2800選」にも選ばれたもんやケン、港湾管理者の北九州市港湾局が修復したり、由来ば解説した看板ば設置したりした。

上・裏というか西側から見た防波堤。一段高うなっとるとこが「柳」のせんたいやったとこ。
下・船体の上部ば撮すために、カメラば下向きに乗せた三脚ば一杯に伸ばして、さらに三脚ごと頭の上まで持ち上げてセルフタイマーで撮った。釣り人がアポーッとして見とった。

 もちょつと詳しゅう歴史ばたどると、沈めたとは昭和23年(1948)、船体のなかには岩石やら土砂ば詰めてコンクリートで固められた。沈めた当初は船で渡らな行かれんやったとバッテン、どうしたことかこれが観光名所になり、水ノ上に出とる船首の内部にも入れたらしか。

 昭和25年(1950)頃には歩いて行かれるごとなって、良か釣り場になっとったていう。そのうちに金属泥棒が目立ちはじめたもんやケン、立入禁止となったゲナ。

 その後は船体の崩壊が急速に進んだ。また、昭和36年(1961)9月の台風でなかの土砂が流失。
 翌年の復旧工事で「涼月と冬月」は完全にコクリートで埋められ「柳」だけは船体上部の原形ばかろうじて80mとどめることがでけた。

 しかし、その「柳」も船体の腐食・劣化が進んで、平成11年(1999)艦首部分が崩壊してしもうた。「こらあこのままでは危なか」いうことになり、船体の周囲ばコンクリートで補強する修復が行われたケン、かろうじて現在も船体はその形状ばとどめとる。

 初めてのところやケン、地図はちゃんと準備して下調べ。だいたいどう行けばいいかていう見当ばつけて出発した。

 若松駅までは駅前に保存しちゃるキューロクばいつも撮しに行きよるケン、問題なし。

 若戸大橋取り付け道路の下ばくぐって、若松市役所前ば直進、左さいカックンカックンて2度曲がって「安瀬」の信号で左折、洞海湾の運河にかかった橋ば渡れば、そこは埋め立て地の北九州エコタウン。

 ここまではよかったとバッテン、若松港の入り口に向いた海岸やケン、て、東へ走ったら突き当たって金網がトウセンバッチョ。

 迷うたら元にもどれの基本に従うて西部ガス北九州工場の角まで戻る。東がだめなら真っ直ぐ北へ走ったら今度は岸壁に突き当たった。

 そこには何人かの釣り人が糸垂れとったケン、こそーっと「軍艦堤防はどっでっしょうか」て聞いたら、「この辺りは企業が進出してきて変わってしもうたケン、そらあもうフェンスで囲われてしもうて行かれん」て答えが返ってきた。

 ダメなら諦めは早か。ほかを回って帰ってから、北九州市港湾局にメールした。

 翌日、官庁にしては珍しゅう早々に返信があって、親切な矢印付きの地図ば送ってくれた。しかも「自由に出入りでけます」てある。

 「あの釣り人め、ウソこきやがって、覚えとれ」て、文句云うたっちゃしようのなか。
 「こら また行かないかんバイ」て、物好き太郎がぬかしやがった。

 2回目は地図のお陰でなんの問題も無く一発到着。天気は良かったし、珍しか取材がでけました。

 今見ると「ここに防波堤やらいらんめぇーもん」て、思うバッテン、それは北側の響灘が埋め立てられて防波堤の役割が終わったからで、以前は洞海湾ば響灘の荒波から守るために必要やった。

 「冬月・涼月」の2艦はこの護岸の中に埋没してしもうとって、今になってはもう見れん。

 この両艦は昭和24年の「沖縄特攻作戦」のときに、戦艦大和の直衛艦として出撃し大破しながらも奇跡の生還ば果したいうて話題になった艦タイ。

 終戦のとき「冬月」は、戦闘可能な完全状態で門司港で防空任務に就いとったとバッテン、終戦五日後に港内で機雷に触れて艦の後部ば大破、航行不能になってしもうたゲナ。

 「涼月」は20年の坊ノ岬沖海戦によって艦首に被弾し大破、通常航行(前進)が困難という危機的状況に陥っとったとやが、後進して帰還を成し遂げたことで有名になった。応急修理して佐世保港で防空任務に就いとったていう。

3枚継ぎのパノラマやケン、岸壁が左右に分かれてV字形に写っとるけど、本当は一直線の岸壁。写真のウソ。

 駆逐艦「柳」は大正6年(1917)の建造、全長は約88m。大正期の旧式駆逐艦で、昭和15年には除籍されとって、太平洋戦争には参加しとらん。
 第一次世界大戦では地中海に遠征するなどで活躍したていう。防波堤として姿ば変えた今でも周囲の防波堤よりも1mほど盛り上がっとるケン、船やったことはなんとか分かる。

 艦首部分は荒廃が進んだケン、コンクリートで補強されとるバッテン、むき出しになった艦体の側面は赤錆が目立ち、腐食した鉄板が剥げてしまいよった。

 当時の造船技術の最高傑作ていわれた戦艦大和が、無茶な特攻作戦で撃沈されたとい、同じ海戦の場ばくぐり抜けてきたこの駆逐艦が、いまこうしてここにあるというのは、なんとも云えんもんがある。


左上・昔は駆逐艦「柳」やった防波堤の船首部分。鉄板が朽ち果ててしもうて、すでに原型は止めとらん。オシャカになるとも時間の問題と見た。
左下・それでも毅然として、帝国海軍の威厳ば保とうてしとるとが健気タイ。バックの建てもんはトーカイ若松工場。

 休日の防波堤、よく釣れる場所と見えて、家族連れも含め釣キチが多か。駆逐艦の堤防なんてだあーれも気にせんで、釣った魚に歓声が上がる。

 湾の向こうには八幡製鐵所をはじめ北九州コンビナートが盛んに活動しとる。いま平和そのものの若松港やが、高塔山の中腹にはこの3艦の戦没者慰霊碑が建立されとって、いまでもお線香の煙が絶えん。

上と下の4枚。北に頭ば向けとる軍艦防波堤。いまは側面ばコンクリががっちりと固められた駆逐艦「柳」だけしか見ることはでけん。

 場所・北九州市若松区響町。行き道は本文と地図ば見ちゃんしゃい。    取材日 2006.1.31〜2008.4.22

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