このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

唐の高僧・善導禅師の木像ば安置        「福岡県」の目次へ
福岡県指定文化財           

 善導寺(ぜんどうじ)は、福岡県福岡市博多区にある浄土宗の寺院。山号は光明山。院号は悟真院。本尊は阿弥陀如来。
 建暦2年(1212)鎮西聖光上人の開山により創建されたていう。江戸時代には福岡藩主黒田氏の帰依ば得とった。

 いまから800年もむかし、建暦元年(1211)のこと、 中国から博多さい向かう船に、ひとりの坊んさんが乗っとんなった。

 船は順調に博多津へ向かいよったとバッテン、途中から天候が悪化し、波も逆巻く大暴風雨となって、船はいまにも沈没せんばかりの危機に瀕した。

 その時この坊んさんが何処からともなく現れ、烈風の吹き荒れるなか船のへさきまで出て行って、一枚の船板に呪文ばとなえながら「南無阿弥陀仏」て書き、荒れ狂う海中に投げ込みなった。

 すると今まで激しかった暴風雨は嘘のごと止んで、波も穏やかになり、船は無事博多津に入港することがでけた。

 博多に着岸するやその僧はなんと、木像になって光りば放ちながら、空に飛びあがって箱崎松原の浜に降りなったとゲナ。

 そのころ、聖光上人は豊前の彦山で念仏勧行中で・・・

 
聖光(しょうこう)上人いうたら。法然(ほうねん)上人のもとで浄土宗の教えのすべてば学び、自分の生まれ故郷の九州で、その教えば広げるため帰って来とんなったとらしか。

 聖光上人が一生懸命念仏ばあげよんなったら、「今博多に降り立ったので、汝早くわれを迎えに来るべし」ていう、唐僧
善導(ぜんどう)大師の霊感ば受けたもんやケン、同じ霊ば感じた彦山座主の蔵慶といっしょに、博多の津へ急いで来た。

 善導禅師いうたら、中国浄土宗の高僧で浄土思想ば固め、日本の法然・親鸞に大きな影響を与えた僧タイ。

 聖光上人たちは浜辺ば探して、松原の樹の下に約30センチぐらいの善導大師の木像ば見つけ出し、近くの荒れ寺に香花ば備えて安置した。ていう話しが残っとる。

 善導寺の門ば入った所に細長い3メートルほどの石の柱(全長246cm、推定重量330kg、花崗岩製)が建っとる。

 これば蒙古の碇石といい、善導大師ばお迎えした時、船の持ち主がお地蔵様ば彫りこんで、このお寺に納めたていわれとる。

 当寺の始まりには、こうした善導大師像の伝来の逸話が伝えられてきとるとタイ。


       善導禅師渡来

 この荒れ寺、もと法相宗の廃墟やったとバッテン、以後浄土宗の寺となり、聖光上人の百日説法が行われたりしたもんやケン、博多談義所ともいわれるごとなった。

 博多談義所云うたら、蒙古襲来後の1286年(弘安9)鎌倉幕府が九州統轄のため設置した機関。1286年少弐・大友・宇都宮・渋谷の四氏による合議訴訟機関とし、博多に置いた。

 八十四代順徳天皇が善導大師の高徳ば聞かれ
「光明山悟真院善導寺」て名前ばつけ「善導寺」の勅額ば直筆で書いてやんなったもんやケン、それから、正式に善導寺になった。

 しかしその後、度々の兵火によって勅額、本堂とも消失。文明九年(1477年)広誉上人が、再建しなったらしかバッテン、その間の260余年のことについては、すべて消失したため寺跡や歴史は残念ながら分からん。

 善導寺の歴代は天皇および大内家、小早川家、黒田藩などから崇敬ば受けとつて、廃藩置県まで深いつながりがあったていう。現在の本堂や庫裡などは、黒田藩主の建築らしか。

 またこの寺に菊の紋やら筋塀などがあるとは、順徳天皇ばはじめ天皇家とのつながりがあったとば示しとる。

 筋塀(すじべい)いうたら、古来の日本建築における土塀の一種で格式の高い寺などに作られたもの。

福岡県指定文化財
木造善導大師立像
木造鎮西大師坐像
梵鐘附銘文巻子1巻
蒙古碇石

市指定文化財
絹本著色地蔵菩薩像
絹本著色十王像
善導寺文書

 もともとこの辺り、蓮池町いうとは、少し南にあった栄西ゆかりの聖福寺の蓮池があったケン、蓮池ていわれとった。

 そして聖福寺の裏から善導寺の東側ば流れる石堂川は、中世末、御笠川の流ば人工的に変えたもんで、博多の東の要害として「松原の堀切」ていわれとった。

 それまでは博多は箱崎松原と連続しとったらしか。

 駅長が子供の頃は石堂川ていいよったとい、最近気がついたらまた御笠川に変わっとった。
 ここにお寺が固まってあるとは、秀吉が博多町割ばした頃石堂辺りは、入江やった。
 そして、本来御笠川の本流ていうとは、鐘紡の工場跡地の方にあった。

 現在の博多駅付近から御供所小学校辺りまで湿地帯で、秀吉が町割をして家を建てても、雨が降るとすぐに浸ってしまうので、御笠川の流ればまっすぐにしてしまい、その西岸にお寺ば集めた。

 
また、代々福岡城の城主は元寇の仕返しば非常に恐れとった。それで藤崎あたりから、西公園、今川、長浜、昭和通り、石堂大橋辺りまでの浜側、それに御笠川の西岸はお寺がずっと並んどる。

 結局、お寺いうとは広くて、大勢寝起きができるだけでなく、お寺ば創ることによって墓地ができるわけ。つまり、いざという時にには墓石ば積み上げ石垣ば造って、元寇の襲来から福岡城ば守るために、防衛線ばお寺で固めとったていう訳。
本堂の裏に4階建てのエレベーター、バリアフリーのモダンな納骨堂がでけた。

 場所・福岡県福岡市博多区中呉服町6。天神から東へ明治通りば約1.4km。「呉服町」信号の二つ先の信号の左手に山門がある。     取材日 2009.5.30〜2010.12.9

待合室へ

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください