このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

  キリシタン3万7千人が皆殺し        「長崎県」の目次へ
 世界遺産登録が決まったキリスト教遺跡

 原城(はらじょう)は、長崎県南島原市南有馬町乙にあった日本の城。有明海の岬ば利用したこの城は、明応5年(1496)に築かれとって、キリシタン大名有馬晴信の頃は「日暮し城」ていわれるほど美しか城やった。
 2018年6月30日に世界遺産登録が決まった長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の構成遺産。

 島原半島の南部に位置し、明応5年(1496) 日野江城の支城として有馬貴純によって築かれた。
 有明海に張り出した丘陵にあり本丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されとった。

 有馬氏が日向国延岡城に転封となった後の、元和2年(1616)に松倉重政が日野江城に入城したとバッテン、一国一城令の影響で不便な日野江城ば放棄し島原城ば築城し移転した。この際に原城は廃城となり、原城の石垣やら構築物はぜーんぶ剥がして、持って行ってしもうたゲナ。

 寛永14年(1637)から15年にかけての島原の乱の後に、幕府は原城跡に残っとった石塁などば全部破却してしもうた。

 昭和13年(1938)、国の史跡に指定されたときの発掘調査で、惨殺された一揆軍の遺骨や鉛の弾丸、クルスなどが出土しとる。
 平成29年(2017)には、続日本100名城の188番に選定された。

 島原の乱ちゃなんかいな?
 
元和の一国一城令で廃城となっとつた原城で、寛永14年(1637)に「島原の乱」は勃発した。

 松倉重政・勝家父子は、どうしょうもなか馬鹿殿様で、島原城ば造って財政が逼迫したもんやケン、とつけむなか苛政ば強いて領民ばいじめたくったとタイ。

 さらに幕府の命令で、過酷なキリシタン弾圧ばしたもんやケン、「もう我慢でけん」いうて、キリシタンと農民達が一揆ば引き起こした。

 この一揆は島原半島のみならず天草にも飛び火し、島原城・富岡城が襲撃された。
 しかし、一揆軍の城攻めはうまく行かず、やがて一揆の群衆は天草の一揆群衆と合流し、約3万7千人が廃城となっとった原城に立て籠もった。

 小西行長の家臣の子孫といわれる天草四郎ば総大将とし、組織立った籠城戦ば展開して幕府軍と戦闘ば繰り広げた。これが島原の乱。

 一揆軍の3ヶ月に及ぶ籠城には兵站の補給がなく、弾薬・兵糧が尽き果ててきた。
 対する幕府軍も1千人の戦死者を出しながらも新手を投入し、ついに寛永15年(1638年4月11日から12日)にかけての総攻撃で一揆軍ば全滅させた。

 一揆軍の中で幕府軍に内通しとった山田右衛門作だけが助命され、そのほか 籠城の一揆軍3万7千人は、女子供にいたるまで一人残らず皆殺しにされた。

 一揆軍は殉教ば重んじるキリシタンの信仰により、全員が喜んで死ば受け入れたていう。

 幕府軍は乱の終結後、原城が再び一揆の拠点として使用されることのなかごと徹底的に破壊し、虐殺された一揆軍3万7千人の遺体は廃墟となった原城の敷地内にまとめて埋めてしもうた。

 発掘調査のとき、鉛の弾丸やクルスのほか、骨に髪の毛がからみついた3万人もの死骸が出てきて、殺戮のすさまじさに背筋が凍ったていう。

 そやケン、城跡には誰が祀ったか「ホネ(骨)カミ(髪)地蔵」ていうとが祀ってある。

 苛政により乱ば引き起こした責任から、島原藩主の松倉勝家は大名としては前例のない罪人とし扱われ、斬首に処せられたて伝えられる。

原城のいくさ配置図

 場所・長崎県南島原市南有馬町乙。九州自動車道ば「南関」で下りる。一般道ば20kmで長州港。有明フェリーで多比良港まで45分。国道251号線へ左折して10kmで島原市ば通過20kmで南有馬町に着く。 取材日 2008.02.20

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