このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 ここの無線指令から太平洋戦争が始まった     「長崎県」の目次へ
 国の重要文化財            

新西海橋から初代の西海橋越しに3本の塔が見える。これが針尾の無線塔。観光客で気づくもんはおらん。

 博多弁に「げいしょも敵わんくせに」ていう表現がある。共通語に翻訳すると「とてもあんたの力じゃ相手にならんとに」ていう意味で使う。

 太平洋戦争ば仕掛けた日本が、まさにこの通り。

 勝つはずのなか戦ば、軍がのぼせ上がって始めてしもうた。

 昭和天皇も天皇タイ。御前会議もあったろうに、なし止めきらんやったっちゃろうか。

 このため国民がどれだけの艱難辛苦に遭うたか。駅長はそれば考えたらこの3本の塔は、見えとっても見る気がせん。

 しかし、あとで調べてみたら、この開戦暗号は瀬戸内海に停泊中の連合艦隊旗艦「長門」が打電し、広島県の呉通信隊が送信したものば針尾送信所が受信して再発信したもんらしか。

 始点じゃなかにしても、中国大陸や南太平洋に展開しとった全部隊に伝えたとはこっからやろう。今となっては、その辺の詳細は分からん。

 いま針尾送信所(はりおそうしんじょ)は、海上保安庁の無線送信所となっとるバッテン、もともとは日本海軍佐世保鎮守府の無線送信所として、大正7年(1918)11月に着工、4年後に完成しとる。ていうことは、もうかれこれ100年もつっ立っとる訳。

 ちなみに総工費は当時で155万円やったていう。竣工日は1号電波塔から順に4月30日、5月30日、7月31日やったゲナ。

 電波塔の高さは、1号と2号塔が135m、3号塔が137mで、基部の直径は約12m、厚さは76cm。3本の配置は約300m間隔の正三角形となっとる。

 その姿は遠方(例えば烏帽子岳・隠居岳、冷水岳)などからも確認できるほど大きか。対岸にある西海橋からみたら目の前にあるとのごと近くに見える。

 しかも、2006年、新西海橋(西海パールライン有料道路)が開通し、これは今までの西海橋よりも200m以上送信所に近いとこば通っとるケン、巨大な3本のコンクリート製の電波塔はよりその高さ大きさが実感される。

 もちろん大正時代からある自立式電波塔としては高さ・古さともに日本一タイ。

 2013年に、3基の無線塔のほか電信室、油庫(ゆこ)の2棟と附属の土地が国の重要文化財に指定された。

右上・高い3本が古か無線塔。低かけど高性能の無線設備がでけたケン、もう働いとらん。
右中・真下から見ると圧倒される。
右下・新西海橋からやったらすぐそこに見える
上・一緒に文化財になった油倉庫。

 終戦後しばらく米軍の管理地となり、昭和23年(1948)からは第七管区海上保安本部佐世保海上保安部が所管し、海上自衛隊と共同で使用しとる。

 しかし、針尾送信所の象徴やった巨大電波塔は、平成9年(1997)に後継ぎの最新鋭無線施設が完成したもんやケン、現在では電波塔としての役割は終えてただ立っとるだけ。

 
針尾島内ではほかに、浦頭引き揚げ記念公園や南風崎駅、特攻隊基地の跡、慰霊碑など、第二次世界大戦の傷跡があっちにもこっちにも残っとる

 西海橋から北に目をやると3本の高い塔が見える。あらなんかいな ?
 これぞ太平洋戦争ばやるぞていう開戦の暗号「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」ば送信した電波塔として有名な針尾の無線塔タイ。

 この暗号で日本海軍は真珠湾攻撃の火ぶたば切って落とし、アメリカ、いや世界ば相手に戦争ば始めた。暗号の「一二〇八」は12月8日のこと。

 駅長はもの好きにも写真撮りに行ったバッテン、ここへ行くとは狭か整備されとらん道ば走らないかんケン、危険。

 行っても堂々と中に入ることはでけん。駅長は得意の鉄条網くぐりで忍び込み、こっそり近づいて撮ったきたけど、塔の中までは入られんやった。

なし太平洋戦争ば始めたとか ?

 これにはドイツのお話からしてこないかん。ドイツは第一次世界大戦に敗けたもんやケン、ファシズムに走ってしもうた。

 「初めからバッテン、ちょっと待ったファシズムちゃなんな ? 」
 「独裁政治によって軍事力ば強化し、海外進出ば狙うていう国家戦略タイ」

 ドイツ・ナチス党のヒトラーは1939年にポーランドに侵攻した。そやケン、当時、ポーランドと同盟ば結んどったイギリス、フランスがそれに対抗しドイツに宣戦布告ばした。これが第二次世界大戦の始まりタイ。

 1940年にドイツはイギリスば除く、ほぼヨーロッパ全土ば支配下に治めるていう怒涛の勢いで勝ち続けていった。

 その頃、日本はていうと日中戦争の真っ最中。当時、国際的に孤立してしもうとった日本は、このドイツの勢いに乗ることにした。
 1940年、ドイツと同じくファシズムに走っとったイタリアとも手ば組んで、
日独伊三国軍事同盟いうとば結んであやかろうてした。

 しかし、はるかに遠かヨーロッパの2国と軍事同盟ば結んだところで実質的な効果はなか、逆にイギリスば支援しとるアメリカとの対立ば深める結果になってしもうた。

 アメリカしてみれば、日本がいたらんことしだしたもんやケン「石油などの燃料やら鉄ば日本には輸出せん」ていう経済制裁ば加えてきた。

 中国との戦争しよるとい燃料がなくなるなんていうとは日本にとって痛すぎる。
 「石油の一滴は、血の一滴」ていう言葉があるくらい戦争では燃料が勝敗に大きく左右するけんタイ。

 なんとか、アメリカの怒りば静めようて、1941年4月に日本政府はアメリカとワシントンで交渉ば開始。

 しかし、その一方で日本の陸軍は石油やゴムなどの資源ば求め、ベトナムへ軍ば進めサイゴンへ突入する。

 サイゴンいうたらアメリカ領のフィリピン、イギリス領のシンガポール、オランダ領のインドネシアなどすべて東南アジアの国ば攻撃できる場所タイ。

 これに危機感ばつのらせたアメリカは、日本に対して石油の輸出ば全面禁止。アメリカに住んどる日本人の資産ば凍結するなどの対抗策に出てきた。

 そして、同年11月。アメリカ国務長官ハルは最後の提案として「中国からの日本軍の撤兵、日独伊の同盟廃棄、満州ば満州事変以前の状態に戻す」ことなどの条件ば日本に突きつけてきた。

 バッテン、これは日本としては到底のめる内容じゃなか、この時期首相に就任しとった東条英機(とうじょう ひでき)は、とうとう真珠湾攻撃の命令ば下し、ここに太平洋戦争が始まったいう訳タイ。

 しかし、なしアメリカは日本がドイツと同盟ば結んだぐらいで、そげん腹かいたとかねえ。アメリカはあんまり関係なかろうもん。・・・ていう謎が残る。

 相手が戦の準備しとらんとに、不意打ちかましとるとやケン、開戦後の日本海軍は怒涛の勢いで太平洋上の島々ば占拠していった。

 1942年1月にはマニラば占領。1942年2月にはシンガポールも占領。1942年3月にはジャワ島占領。まさに破竹の勢いタイ。大本営の発表に駅長たち子どもも「勝った勝った。バンザイ。バンザイ」やった。

 しかし、日本軍の勢いもそこまで・・・。1942年6月のミッドウェー海戦では空母4隻、航空機300機ば失い、また多数の熟練兵も失うて惨敗。
 このミッドウェー海戦ば境に戦局は反転。アメリカの猛反撃にあうことになる。

 もともと、日本は石油もなかし物資に乏しかっちゃケン、短期決戦で勝ってしまわな、長引いたらとても勝てる見込みはなか。

  その後、守りに回った日本軍は米軍の猛攻になす術もなく、硫黄島敗北、沖縄戦敗戦・・・て負け続けタイ。
 それでも大本営発表は勝ったゴトいうて国民ば欺しとった。

 
福岡の大空襲が1945年6月19日〜20日。マリアナ諸島から飛んできたB29はなんと239機。市内の中心部は殆どが焼かれ、1,000人もの人が死んだ。

 もうちょつと詳しゅういえば、
  
罹災戸数12,693戸(市内の33%)
  罹災した人の数60,599人(市内の44%)
  死者数:902人+行方不明者数24人  重傷者586人。


 日本軍はもうその頃ヨレヨレで、迎え撃つ戦闘機はナカ、高射砲の弾はB29まで届かんやった。福岡の空はB29で埋まり米軍のなすがまま。

 わるそう坊主の駅長は、町内の防空壕から顔だけ出して、ただアポーッと眺めとった。防空壕の中はお年寄りたちのナンマイダ、ナンマイダ、ナンミョウホウレンゲキョウで溢れかえっとった。

 そして、そして、そして。1945年8月6日に広島、8月9日長崎に原爆ば落とされて、日本はしまえてしもうた(博多弁で終わること)。

 8月15日。ついに昭和天皇はラジオで全国民に敗戦ば伝えるしかなかった。

 駅長は小学5年生で、なんのことか訳も分からんまま、ラジオの前に直立不動の姿勢で
「玉音放送」いうとば聞かされとった。

 それがこの「大東亜戦争終結ノ詔書(みことのり)」

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

  御名御璽              昭和二十年八月十四日

 この戦争で死んだ日本人は、軍人が約2百万人。民間人が原爆死者も入れて約百万人。合計で3百万人の命が失われとる。
 これは当時の全人口7千万人の4%以上にもなる。

 軍部のリーダー達は戦犯としてみんな処分・処刑された。
 
 針尾無線塔のはずが、とんだ方向へ電波が飛んで行ってスンマッセン。

 場所・佐世保市針尾中町750 九州自動車道〜長崎自動車道〜西九州自動車道て高速ば走り、佐世保大塔で下りる。国道205号線ば約4Km南下右折して国道202号線ば西南へ約6Kmで佐世保市針尾支所。あとは高っか塔やケン、それば目安に勘で走るか。支所に聞いて教えてもらうか。いづれにしても先はひどか田舎道。  取材日 2012.4.12

待合室へ

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください