豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役:1592〜1598)ばしたとき、気の利いた大名たちは、やきもの作りの新しい技術ば得るために、多くの朝鮮人陶工ば連れて帰った。
有田焼の李参平も、連れてこられたそのひとりやし、大村藩も大村喜善(よしあき)が出陣して、李祐慶(り・ゆうけい)兄弟ば連れてきた。畑ノ原窯は、この李祐慶に大村喜前がつくらせた波佐見焼の窯跡のひとつやった。
文献などの資料は残っらんげなバッテン、慶長4年(1599)に築かれたて伝えられとって、波佐見最古の本格的な窯やゲナ。この窯では、はじめ陶器ば焼きよったっちゃが、李祐慶は苦労の末、慶長10年(1605)に三股山咽口(砥石川)で良質の陶石ば発見してから、17世紀には磁器が焼かれるようになったていう。
畑ノ原の窯は「連房式階段状登窯(れんぼうしき)」と呼ばれるもんで、昭和56年(1981)発掘調査が行われ、全長55.4mで24室が確認されたとやが、初めはもっと多かったらしい。
当時の窯としてはわが国最大級。また陶器から磁器に移る過渡期の窯として重要な遺跡いう訳で、1993年に復元され、保存された。昭和35年、長崎県の史跡になっとったとが、平成12年国指定の史跡に格上げされた。
平成5年に復元作業が行われ、下方の一部窯室は実際焼くことができるごと忠実な再現がされとる。
公園化された窯跡には駐車場にトイレも完備。トイレの男女表示まで波佐見焼きやつたとにはタマガッタァー。
李裕慶は畑ノ原窯ば開いたあと、中尾に住んで名前も中野七郎左エ門と改名。日本に帰化して、後進の指導に力ばそそいだていう。
拉致してきたもんと、されてきた李裕慶の間には、友情ちゅうか、信頼関係が芽生えとったごたる。「それが理由けぇ」(李裕慶のシャレ)ていう訳じゃなかろうバッテン、
元和2年、藩主喜前公が死んだとば聞いて、ひとりで李裕慶は大村城に行き城門の前で殉死した。行年48才。
いま、大村本経寺の喜前公墓前に葬られとんなる。
昭和43年(1968)波佐見町は陶器の創業370年祭ばしたとき、李裕慶の碑ば建ててその遺徳ばしのんだ。碑は旧中央小学校の裏山、甲辰園にある。
やきもの公園
波佐見町井石郷の小高い丘の上には、中国はじめ、イギリスやスペインなど世界の代表的な窯が12基も再現してあってクサ、「世界の窯広場」になっとる。世界でも珍しか窯の野外博物館ていう訳タイ。
やきもの公園の一角にある「陶芸の館」は、400年の歴史ば持つ波佐見焼の伝統技術の伝承と後継者育成、新製品の開発のために波佐見町が建てた。
1階は絵付やロクロの体験ができる陶芸教室と販売コーナー。2階には、古窯跡から出土した陶辺をはじめ、くらわんか碗や三股徳利などの歴史的史料が展示されとって、波佐見焼の歴史ば分かりやすうたどれるごとなっとる。
現在、波佐見焼きの窯元数は100軒以上、主な製品は日用和食器で、有田焼と比較れば、より大量生産の色合いが強か。
やきもの公園入口の壁面には、波佐見焼きの変遷がオブジェ風に表現されとる。丘ノ上では世界の窯が見れる。