このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

350年も前に三池藩が灌漑用の水路橋ば作った     「福岡県」の目次へ
国指定重要文化財

 早鐘眼鏡橋(はやがねめがねばし)は福岡県大牟田市にある石造りの眼鏡橋。
 いまから約350年前、延宝2年(1674)に三池藩が大牟田川ば渡す灌漑用の水路橋として作った。高さ11.2m、幅3.15m。現存する最古の石造り水路橋として、国の重要文化財ば受けた。

 早鐘眼鏡橋は、築町から勝立に通じる道路と、炭鉱鉄道が交わる地点から北東100mの大牟田川(現地では「さかさま川」ていう)ば跨いで架けられとる。
 
 「平塚家旧聞記」には・・・「元和年中(1615〜24)頃までは、御領内日損多く庶民その憂い言い難し。とろわけ下二部村・片平村は毎年損毛。寛永14年(1637)丁丑の年は大旱跋にて、その上虫入りて諏訪の前、片平の左右とも一穂も実らず・・・・。

 百姓の困窮度々に及びける故、喜右衛門早鐘山の谷に堤をつきけり。其年寛文四年(1664)甲辰なり」ていう記録が残っとる。

 もうちょつと現代語でやさしゅういうと、

 江戸時代の初め頃、諏訪川右岸の村々、今の片平町・川尻町・天領町・諏訪町あたりは用水が乏しく、しばしば干ばつの被害を受けとった。

 特に1637年、島原・天草の乱の年は大旱跋で、世情騒乱の中、藩の重役たちの苦悩は大きなものやった。その中でも、片平村・下二部村(現在の諏訪町・天領町付近)の稲の収穫は皆無で、灌漑は急を要した。

 三池藩は、この対策として寛文4年(1664)平塚喜右衛門信昌、伊藤源右衛門、屋山三右衛門、福田次右衛門らの重役たちが、大牟田川の上流にある早鐘の谷に、当時としては筑後第一の早鐘池ていう大きなため池ば築き、さらに用水ば諏訪川右岸と大牟田左岸に流するために、この眼鏡橋ばかけて水路ば通した。

 問題は、その水ばどのように配水するかやった。用水路の途中には「逆川」(さかさまがわ)ていわれる大牟田川の上流があった。この川の上に水ば通すとなると、高さ10メートルの堤から流れ出る水の圧力で普通の木樋ではすぐ毀れてしまう。

 そこて藩では、寛永11年(1634)中国の僧如定によって架けられた長崎眼鏡橋の構想ば取り入れ、その設計・測量ば行い、実行に移した。要するにパクった訳。

 僧・黙子如定(もくす にょじょう)いうとは、寛永9年(1632)に来日し、長崎の興福寺に入寺した中国の僧で、寛永11年(1634)には、眼鏡橋の建設指導にあたったていわれとる。

 まず早鐘谷ば締め切り、高さ10m、幅80mの堰ば築いて、堰が崩れんごと松や竹ば植えて堤は完成した。

 その完成した時の記念碑が眼鏡橋のたもとにある。記念碑には「寛文4年(1664)甲辰夫正月日」とある。

 堰堤が完成してから1年間、平塚喜右衛門は、雨の日や風の強い日などは、藩内の農民ば指揮して徹夜し、堰堤ば竹が根ばびっしり張りめぐらすまで巡視ば続けたていう。

 橋の上には3方が板石で作られた深さ33センチ、幅45センチの水路が通っとる。

 またこの橋は、人馬の交通をも兼ね多目的に利用され、流水は生活用水として明治19年(1886)まで活用されとった。

 早鐘堤はいまゴルフ場となり、眼鏡橋だけがむかしの姿ば残しその歴史をば伝えとる。

 この後いよいよ眼鏡橋の架橋に取かかったとバッテン、半円型にすると橋が高くなって水流が悪く、橋ば低して半円型にすると橋間が狭くなり、下ば流れる逆川があふれて洪水の恐れがあるため、円心ば2.46メートル下げた3分の1型の眼鏡橋とした。

 長崎のばお手本にして、藩独自の土木技術ば駆使した、日本で初めての石造り水道橋がてけた。
時に1674年(延宝2)2月のことやった。

 堰提の完成から10年、158分の1の勾配で水流ば調整しながら下二部村、片平村、大牟田村の水田ば潤し、その翌年からこれらの村々の米の収穫高は激増したていう。

 この橋の石材は、ここから1kmほど東の、大牟田市櫟野地方に産出する阿蘇溶結凝灰岩で構築されとるけど、これに携わった石工たちの名は分からん。

 場所・福岡県大牟田市早鐘町128。太宰府ICから九州自動車道ば南関ICまで、55km、35分、1,620円。下りたら西へ県道10号線ば7kmで新幹線ば跨ぎ、3kmの「元村」信号ば国道208号線へ左折6kmの「築町」信号で県道3号線へ斜め左折。2km走って「末広町」信号の200mにある川の手前で小道へ入り川沿いに50mで石橋がある。      取材日 2008.4.15

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