このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

明治に生まれた日本5大灯台のひとつ           「福岡県」の目次へ
  Aランク保存灯台

一日中混雑しとる関門海峡の入り口ば守っとる「部崎灯台」

 部埼灯台(へさきとうだい)は、北九州市門司区の関門海峡に突きだした企救半島(きくはんとう)の北東端、瀬戸内海の周防灘に面した小高い丘の上に立つ石造の大型灯台。

 大政奉還により江戸幕府最後の年となった慶応3年4月(1867年)兵庫開港に伴う外国船の安全航行ば確保するため、幕府がイギリスとの間で締結した大阪約定(大阪条約)で設置ば約束した五カ所の灯台のひとつ。

 明治新政府が事業ば引き継ぎ、「灯台の父」て呼ばれるイギリス人リチャード・ヘンリー・ブラントンに設計ば頼んで、明治3年(1871)に着工、明治5年(1872)に石油灯で初点灯したもの。
 昭和56年(1981)10月から無人化されとる。

 青い空に映える重厚な白御影石造りの灯塔やフランスから輸入した回転式レンズが当時のままで美しか。

 2016年、登り口の石段が一部崩落して灯台周辺は立入禁止となっとったバッテン、復旧工事が完了し、年末には立入禁止が解除された。

 灯台には関門海峡ば航行する船舶に早鞆瀬戸の潮流の状況ば知らせる電光表示板(部埼潮流信号所)が設置されとる。

 この灯台は、歴史的文化財的価値が高かAランクの保存灯台で、日本の灯台50選にも選ばれとる。

 建物の構造 白色 塔形 石造(花崗岩) 
 灯火の高さ 39.1 m
 レンズは 第3等小型フレネル式 
 毎15秒に1閃光  実効光度 180,000cd
 光の到達距離 17海里(約32km)

 この男、豊後国伊美村出身で、もとは指物師やったとバッテン、17才の時に相撲で誤って相手の友人ば死なせてしもうた。その影響で仏門に入ったていわれとる。

 僧清虚は天保年間に高野山へ修行に行きよったら、ここで船客がみんな数珠ば手に念仏ば唱えだした。訳ば正したら、ここらは船の事故が多くて死人が出とるケン、拝みよるとていう。
その話ば聞いて「そらいかん、なんとか人の命ば救おう」て、船頭に頼み浜に上陸して、山の中腹に燈明台ば建て、火ば燃やし始めたていう。

 以来、清虚は13年間、雨の日も風の日も読経とともに燈明の火ば絶やさず焚き続けたとゲナ。
はじめは乞食坊主て呼んどった、村人たちの心も次第に変わっていき、一食(いちじき)坊主と尊敬ば込めて呼ぶようになった。徐々に火焚きば手伝うもんもでてきた。

 最初は利三郎ていう村人が引き継ぎ、次第に輪番制が確立して村ば挙げて取り組むようになった。やがてこの火によって遭難ば免れた船頭たちの評判になり、下関の商人からの援助も届くようになった。

 それで辺埼山にちゃんとした火焚場ば作り始めたとバッテン、完成間近の嘉永3年(1850)に清虚は死んでしもうた。

 その後、火焚場の火は1872年にこの洋式灯台が完成するまでの21年間地元の住民によって守り続けられたていう美談やった。

 部埼灯台の足元の海岸に大きな白い坊んさんの像がある。
    
僧「清虚の像」で地元門司港の河上氏により
    彫刻されたもんゲナ。 さあ清虚ちゃなんや?
 部埼灯台下の海岸に松明ばかざした高さ18mにおよぶ清虚の立像が、昭和47年(1972) 有志によって建立されその功績ばいまに讃えとる。

 ここば建てた日本の灯台の父、リチャード・ブラントンは、僧清虚の話ば聴いてどう感じたやろうか。部埼灯台の設置場所が清虚の火焚場の近くになったことは偶然だとは思われん。
清虚
(せいきょ)

 場所・福岡県北九州市門司区大字田野浦。福岡ICから九州自動車道ば門司ICまで68km。46分。1,980円。下りたら県道72号線ば北へ約3km。白野江郵便局の前で右折して海岸沿いに2.5kmで突き当たりに駐車場がある。        取材日 2008.10.13

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