このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 長崎に入る主要道路の入口やった      「長崎県」の目次へ
 国の有形文化財                     

心霊スポットのトンネルやけん、夜に走るとは気持ちが悪かった。

 もともと日見峠は、急な坂の続く難所やったケン、明治15年(1882)8月に人力車やら荷車ば対象にした日見新道が完成したとバッテン、大正期に入ると道路ば使う交通手段として、自動車が普及するようになったもんやケン、従来の日見新道では対応できんごとなってきた。

 そこで、当時の長崎県は、大正13年(1924)にトンネル工事ば開始し、2年の歳月と総工事費約47万7,000円ばかけて大正15年(1926)に、当時の日本最大級のトンネルを完成させた。これがいまの旧日見トンネルタイ。

 日本が自動車交通時代ば迎えた初期の本格的な道路トンネルで、日本の道路トンネル技術史においても貴重な構造物ていうことになっとる。トンネルは馬蹄形坑口で石張アーチ2車線仕様の延長642m、幅員7.4mのコンクリート造り。

 目地を彫込んだ壁面とピラスターなどポータル(抗門)のデザインば見とると、いかにも大正期の様式らしかレベルの高い意匠ということが分かる。

 諫早に居った頃の駅長は、長崎に支店があったもんやケン、仕事の関係でこの道とこのトンネルは何十回も行き来しとる。昼の間はよかバッテン、夜遅うここば通るとはイヤやった。
 なし?

「旧日見トンネルば夜中に走ると幽霊がでる」ていうのは有名な話やったけんタイ。
 昔このトンネルで二人乗りしとったバイクが事故に遭い、後ろに乗っとった女性の身体が腰から半分に真っ二つに折れて死んでしもうた。それからここば通ると、上半身だけの女性が追いかけてくる云われるごとなってしもうた。

 追いかけてくるとは、決まって女性のバイクで、下半身ば捜しさまようとるて云われとった。トンネルの近くでは女性の悲鳴が聞こえていう噂も立っとった。

 旧の日見トンネル(ひみトンネル)は、長崎県長崎市にある日見峠(ひみとうげ)のテッペンにあるトンネル。以前は国道34号線(長崎街道)ば経由して長崎市街地に入る要衝で「西の箱根」て呼ばれとった。開通したとは、大正15年(1926)4月、国道の峠越えトンネルとして、交通量も多かった。

 平成11年(1999)にトンネル付近の慢性的な交通混雑ば解消するため、芒塚町ば起点とし、同市本河内に至る延長1.6kmの区間に日見バイパスいうとがでけて、新日見トンネルが完成した。

 この新トンネルは旧日見峠から離れとって、新トンネルのある日見バイパスが国道34号線になり、旧の日見トンネルば通る道は県道116号長崎芒塚(すすきづか)インター線てなった。

 そして、旧日見トンネルは、平成13年(2001)に国の有形文化財として登録された。

 こげな俳句が刻まれた句碑が、日見トンネルの東側出口近くの斜面にある。詠んだとは、江戸中期の俳人で長崎出身の向井去来(むかいきょらい・1651-1704)

 去来は長崎の後興善町(現在の長崎市立図書館付近)に、長崎聖堂を建立したことで知られる儒学者の向井元升(げんしょう)の二男として興善町に生まれた。8歳の時に、京都へ移住。30歳代半ばで松尾芭蕉の門人になり、蕉門十哲のひとりて称されとる。元禄2年(1689)に一時帰郷し、長崎に蕉門俳諧ば伝えたていわれとる。

 句碑は、去来が長崎ば離れる時、ここまで見送りに来た人たちに対して詠んだ句だそうで、句の意味は「別れに手ば振るあなた方の姿は見えなくなったけど、この日見峠の秋風にそよぐススキの穂波のなかに“さようなら”とみんなが振る手が入っているのだろう」いう。

 裏面に天保4年(1784)に長崎の俳人達が建立したことが刻まれとる。
 
句碑のある芒塚町(すすきづか)の名前は、その句からついた。

 
高速道の建設により、平成13年(2001)日見峠側に移設され、県指定有形文化財になっとる。

 君が手も まじるなるべし 花薄(すすき)

 場所・長崎県長崎市芒塚町 太宰府ICから九州自動車道・長崎自動車道ば最後近くの「長崎芒塚IC」まで走る。133km。1時間半。ETC3,480円。料金所ば出たら右にぐるっと回って高速の下ばくぐって、県道116号線へ左折すれば、もう旧トンネルが見えとる。 取材日 2008.2.19

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