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凛として聳える 鉄川与助作 白亜の教会             「長崎県」の目次へ

 紐差のカトリック再布教は、明治2年(1869)のジラル神父に始まって、6年の解禁後にペルー神父が着任しなったことで本格化する。

 明治7年(1874)、紐差近くの深川地区におった8人の隠れキリシタンが、県内で初めてカトリックに改宗したもんやケン、住民の多くがぞろぞろてカトリック信者になつていったゲナ。

 それに田平教会のとこで書いた、外海からの移住者も加わっていったらしい。

 明治時代、紐差に駐在した神父は、平戸のほか、黒島(佐世保)、田平、生月島、佐賀県の馬渡島に広がる地域の布教で、ちんちろまい(コマネズミがまうごと忙しい有様)するごと忙しかった。

 10メートル足らずの小船で、島々ば巡る布教活動は、危なかこともあったらしか。
 バッテン、そげな神父たちの努力で、いまの紐差は、宝亀、田平などと並んで、多くのカトリック信者が暮らす地区になっとるとタイ。

 信仰の拠り所としての教会は、明治20年頃に木造で建てられとったらしか。

 いまの紐差教会は昭和4年(1929)に、当時としては珍しか鉄筋コンクリート造りで建てられとる。

 建てたとは長崎県内に多くの教会ば建設した鉄川与助。与助が建てた鉄筋コンクリート造りの教会としては、熊本の手取教会に次いで2番目やったゲナ。

 原爆で旧浦上天主堂が壊された後は、日本最大の天主堂ていわれよった。日本で最大いうことは、東洋屈指の天主堂やったていうこっタイ。

 半地下室があるケン、会堂には階段ば上ってから入る。なかは三廊式で、円柱にはコリント風の柱頭飾りが施されとった。

 身廊は格縁のある板張りの舟底天井。
 身廊(しんろう)ていうたら、教会の中の真ん中の細長い広間の部分のこと。入り口から祭壇(内陣)までの間のことばいうとタイ。

 側廊は額縁のある平板の張天井、折上げになっとる。
 側廊いうたら、身廊の両側に張り出しとる部分のことでクサ、身廊との間は列柱で区切られとる。

 旧教会の建物は解体して馬渡島に移設され、さらに馬渡島にあった旧教会の建物は、呼子の教会に転用されとるていうケン、兄弟がお古の着物ば上から順繰りに着とるようなもんやろう。

 この旧教会の設計はラゲ神父やったらしく、それが明治21(1888)年で、120年前のことやケン、たまがるばっかしタイ。


上・紐指の丘に立つ白亜の教会は遠くからでも近づいても美しか。
右上・マリヤ像はなし、どこんとも悲しか顔やろか。ニコニコしたとはあんまり見らん。
右・舟底天井の身廊と柱で区切られた側廊。白が基調やケン明るか。

上から・紐差教会の裏手にある十字架山。十字架山の回りに14基の石碑が並んどると。そのひとつづつに「十字架の道行き」が刻まれとった。
右・木ケ津湾の入り江から見た教会の全景。後ろの山は有僧都岳(うそうずだけ・351m)

 余談バッテン、ラゲ神父いう人はクサ、旧浦上天主堂の設計もしとんなるし、むかし大名町にあった教会「勝利の聖母」聖堂の設計もげなケン、たいしたもんバイ。余談の余談バッテン、この「勝利の聖母」聖堂は、いま久留米の聖マリア病院構内に「雪の聖母」聖堂として移築復原されとるケン、見ることがでける。

 アーチ形の天井やら、花模様のステンドグラスなど、ロマネスク様式の美しか中ば眺めよったら、ついつい
時間が
立つとも忘れてしまいそうな教会やった。

 教会の横に「十字架山」いう標識があって、山の方ば向いとったもんやケン、はじめは遠くの山が十字架山ていうとかと思うたら、教会の裏に「十字架の道行」ば刻んだ石碑群があって、そこば十字架山ていうとやった。

 
「十字架の道行」いうとは、昔からよく行われてきた祈りで、キリストの苦しみの14の場面ば書いた文章やら絵、彫刻が、どこのカトリック教会にもあるとゲナ。

 第一留  イエス罪にさだめられる
 第二留  十字架を担われる
 第三留  ひとたびころばれる
 第四留  母に会われる
 第五留  キレネのシモン、イエスの十字架を担う
 第六留  イエス女に顔をぬぐわれる
 第七留  再びころばれる
 第八留  エルサレムの娘たちをしかる 
 第九留  三たびころばれる
 第十留  着物をはがれる
 第十一留 十字架に釘づけられる
 第十二留 十字架の上に息絶えられる
 第十三留 母マリアにわたされる
 第十四留 イエス墓におさめられる

 そげなこたぁ全然知らんもんやケン恥かくとこやった。

 場所・平戸市紐差町。平戸大橋を渡って約1.5kmの「岩の上」信号で左折。県道383号線を15km南下すると、右手の丘の上に白亜の教会が見えてくる。坂を登れば教会の下に駐車場。拝観自由。内部も撮影可。   取材日 2008.04.11

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