駅長が行ったときは、ちゃんと開いとって大分弁まるだしで説明してくれる管理人のおじさんがおんなって、入場料大人300円やったけどそれ以上の見る価値はあった。
ところが最近の由布市HPば見たら「諸事情により現在「旧日野医院」は休館の対応をさせていただいております。お問い合わせは社会教育課でお受けいたします。突然の対応となってしまい大変申し訳ありません。ご迷惑をおかけしますが、何卒よろしくお願いいたします」
多分、こげなもんばわざわざ見に来る駅長のごたるもの好きはおらんやろうケン、由布市も経費節減で公開展示ば止めたとやろう。
じやぁあんまり人が振り向きもせんこの建物はなんか ?
この土地には江戸時代から続く日野ていうお医者さんの一族がおって、その3代目の日野要(かなめ)ていう人が、明治27年、建てなった擬洋風(洋風ばマネた)、土蔵造り木造2階建ての医院ていう訳タイ。
大分県内に現存する洋風建築の最古といわれ、青緑色のアーチば描く玄関ポーチと、漆喰仕上げの白壁が美しか建物やった。
平成4年から7年にかけて保存修理が行われ、平成11年に国指定重要文化財に登録された。今年で築120年ば迎えるていうケン、たまがるばっかしタイ。
要さんの娘、日野俊子さんも医者ば志し、当時としては珍しか女医として90歳を超えるまで、この病院で診療ば続けたていう。
俊子さんは大分県で女医の草分け。明治29年(1896)生まれ。あと1日で満101歳になるという日の平成7年(1995)1月17日、大往生ば遂げなった。
草深い由布の里で「日野病院のおなご先生」の愛称で呼ばれ、みんなにつくした一世紀やった。
それで国際女医学会賞・日本女医学会賞・勲五等宝冠章等ば受賞。名誉町民の称号まで贈られなった。
医院の庭は、俊子先生の記念公園になっとって、院内も当時使用されとった診察台や、医療器具が展示され、文化的にも非常に価値の高い遺産となっとる。
駅長が行ったときも、俊子医師が使うとった診察室、手術室、レントゲン、机、椅子などがそのままに保存されとった。
設計したとは日野の要さんと施工者の法華津喜八のふたりで、本館の竣工が明治27年(1894)、隣接しとる病棟は木造2階建、寄棟造、桟瓦葺で建築年代についての記録はなかバッテン、明治32年(1899)頃て考えられとる。
工事期間は木材の調達を含めて約6年、従事した人員は42人の名前が棟木に書かれた墨書で分かっとる。建築費用は全部で2万円ていわれとるけど、そう言われても当時の金の価値が分からんケン、ぜんぜん見当がつかん。
小屋組は洋風の小屋組なのに梁には太か丸太材ば使うたり、壁は全面に筋違いば入れたり、ポーチ柱の頭飾りには阿吽(あうん)の龍ば配したりして洒落とる。
この龍は日野氏のこだわりで、阿吽には「医者と患者が阿吽の呼吸で病気ば治していく」ていう意味が込められとったとゲナ。
温泉保養地として由布院ば世間に売り出した油屋熊八も入院したことがあったていわれとる。
油屋 熊八(あぶらや くまはち)いうたら、田園的な温泉保養地「由布院」の基礎ば築くと同時に、別府ば世界的に有名な観光都市にした実業家タイ。
その油屋熊八との出会いは、昭和3年(1928)の春。亡父要の後ば継いで院長に成り立ての頃、ツルツル頭ば血だらけにした男が担ぎ込まれて来た。俊子さんば見て「看護婦じゃ分からん、医者ば呼べ」て喚き散らす。
「私が医者です。ここの院長です」ていうたら、途端に大人しくなった。この男が血気盛んな名物男の油屋熊八やった。
病気は治っても、院長が若く美人やったケンからか、退院許可ば無視して2週間もねばっとったていう。
また壁には鏝絵(こてえ)で描かれた鷹が見える。鏝絵は反対側にもあって、そちらには牡丹が見える。
鷹のほうは「鋭い眼で病気ば見抜く」こと、牡丹は「患者のことば優しく思う心」ば表しとるていわれとる。
ポーチ天井ば折り上げ格縁(こうぶち)に組んだり、窓は横引きのガラス窓にするなど、洋風ば真似てあっちこっち凝っとる。
そういわれてみると日野要ちゅう人は、相当な凝り性やったことが分かる。
離れは、桁行5間、梁行2間、屋根は寄棟造り桟瓦葺の建物。
この座敷および縁は温突(オンドル)式の床暖房がほどこされた新感覚。温突は当主の要さんが朝鮮に行った時に温突ば見て、こればマネて作ったとげなケン、時には寝室として使いよったて伝えられとる。
明治から昭和まで約80年医院として地域の人々に愛され、今もなおその志と歴史は、由布院駅のすぐ東にある 医療法人 福寿会日野病院 (理事長 日野修一郎氏) によって引き継がれとる。
内科、外科、消化器科、肛門科、婦人科、耳鼻咽喉科、リハビリテーション科、小児科、循環器内科、整形外科。なんでもありの総合病院タイ。
油屋熊八も入院したことがある