鎖国から開国に向けた時代、安政の五国条約ば結んだイギリス、アメリカ、オランダ、フランス、ドイツの国々が長崎居留地に入り込んどったケン、外国人の要求からこの舗装道路が造られたとやろう。
切り石ば敷き詰めるていう石畳の技術は、どこの国のもんとやったとやろうか。
日曜ごとに大勢の外国人がこの道ば通り教会に行ったケン、この坂道ば「オランダさんが通る坂」〜「オランダ坂」て呼んだとらしか。
左が活水学院、Dutch Slope「オランダ坂」ていう石柱が立っとる。
活水学院は、明治12年(1879)メシジスト派の宣教師、エリザベス・ラッセル女史とジェニー・ギール女史が、東山手16番に設立しなった日本の女学校の草分けとして有名かと。
なし「活水」かて云えば、ヨハネ伝の「さらば汝に活ける水ば与えしものば」からきとるとゲナ。
いまは4年生の女子大学バッテン、以前は2年生の短大もあって、長崎のおじょうちゃま学校として純真短大と双璧やった。
丸山町のオランダ坂。
長崎の丸山は、江戸の吉原・京都の島原とともに日本の三大花街ていわれとった。
「行こか戻ろか思案橋」のひとつ先が長崎電鉄の終点正覚寺下。崇福寺入口バス停から丸山へ上る細い石段交じりの坂道。料亭青柳の前の通りもオランダ坂ていいよった。
なんと東山手にあるオランダ坂よりも古く、名付けられたとは江戸時代ていうケン、ここが本家本元のオランダ坂ていう訳。
むかし正覚寺(しょうかくじ)に沿うて上ったとこに、福屋ていう西洋料理店があったケン、オランダ坂て名前がついたていう説と、丸山の遊女が出島のオランダ屋敷へ向かうための坂道やったていうもの、どっちもありそうなふたあつの説が残っとる。
出島のオランダ屋敷には、丸山の遊女だけが出入りば許されとったケン、遊女たちはあんまり目立たんこの坂ば通って、思案橋通りの銅座川ば下って通いよったていう。
大浦天主堂・グラバー園に向かう坂もオランダ坂。
むかしの長崎では、東洋人以外の外国人はみーんな「オランダさん」て呼んどった。アメリカ人もイギリス人もいっしょくた。そやケン、東山手と南山手の外人居留地に通じる石畳の坂はクサ、みんなオランダ坂やったとタイ。東山手のオランダ坂と区別するためにこの坂は下り松(さがりまつ)のオランダ坂て云いよったらしか。
いまこの坂はグラバー通りて呼ばれとる。
オランダ坂はコレッていう目玉がなかし、とくに美しか景色でもなかケン、よそから観光に来ても人によっては「なに、これ ? 」って失望することもあろう。
札幌の時計台。高知のはりまや橋。それに長崎のオランダ坂ば、日本観光の3大ガッカリ名所ていう説もある。
ついでに世界の3大ガッカリ名所は、シンガポールのマーライオン、コペンハーゲンの人魚姫像、ブリュッセルの小便小僧ゲナ。
下・普段は観光客も多かし、活水の学生さんでオランダ坂は結構賑あうとる。
ナガサキ 坂物語
ドンドン坂
オランダ坂の東山手と同じ多くの外国人が住んだ南山手にある。
坂の脇には水流の速さば調節する側溝がある。多分外国人達が伝えた工夫やったろう、三角溝て呼ばれとるとゲナ。雨が降ると水がドンドンて音ばたてて流れるケン、どんどん坂タイ。
コンスイ坂
大浦海岸通りの税務署前交差点ば過ぎたあたりば左に入ると、南山手地区の異国情緒溢れる景色が広がってくる。
コンスイ坂の由来は、この付近にロシア領事館があったケン、名付けられたとゲナ。ロシア語で領事館のことばコンスイていうとゲナ。ちなみに、この坂ば上ったところに明治時代中期に建てられたていう杠葉(ゆずりは)病院がある。杠葉病院の本館は英領事館員の住宅、別館は貿易商レスナーの住宅やったとゲナ。
プール坂
南山手町 浪平(なみのひら)小学校プールの横の坂で、昭和57年9月にプールが出来てからそう呼ばれるごとなった。 マリア園のとこから登っていく。
祈念坂
大浦天主堂から右に行くとグラバー園バッテン、左に行くと祈念坂ていう坂がある。こちらに来る観光客はひとりもおらん。天主堂と墓地との間にある坂やケン、祈念ていう名前がついた。
坂はそげん長うなか。祈念坂ば下りたあたりは、神社(大浦諏訪神社)、お寺(妙行寺)、教会(大浦天主堂)がかたまってあるケン、地元の人が「祈りの三角ゾーン」て呼んどる場所。
ヘイフリ坂
寺院が建ち並んどる寺町周辺、大音寺と皓台寺、長照寺と延命寺の間の風頭山頂さい続く坂道。
寛永14年(1637) 諏訪神社の大鳥居ば建てるとき、この坂から風頭山(かざがしら)の石ば降ろした。 運ぶ人夫二千人ば動かすとに、御幣ば振って指揮したり、励ましたことに由来しとるとゲナ。筑後町にある東本願寺東側の石段もヘイフリ坂(幣振坂)て呼ばれとる。
トロトロ坂
長崎電鉄の終点・蛍茶屋のいっちょ手前、新中川町電停から鳴滝川の上流方向へ一筋入った場所に橋が架かっとる。見事な造りのアーチ型石橋で古橋(中川橋〈なかご〉てもいう)この石橋が江戸時代は長崎街道の玄関口やった。
そしてこの古橋から続く坂道がトロトロ坂。なしトロトロ坂ていうたら、なだらかな傾斜やケン、とろーとろ歩けるけんタイ。
この坂道は長崎開港の3年前、清時代の江南風に舗装されとるエキゾチックな石畳で、道を広げたケン、中央部分だけが石畳になっとる。かつては石段やったケン「中川(なかご)の段々」て呼ばれてとったゲナ。
坂の途中にあるお堂は、弘法大師が祀られとって、今は大師堂として親しまれとるバッテン、中央がお地蔵さんやケン、本来は地蔵堂やったとのごたる。長崎街道ば守るため、お地蔵さんが祀られとったていうわけやろう。
ピントコ坂
ピントコ坂とは、国道324号線(旧茂木街道)の上小島バス停付近から、長崎女子高校の横ば通って、県立南高等学校正門前まで続く坂段のこと。ピントコ坂なんていう変な名前には次のごたあ言い伝えがある。
何旻徳(か・ぴんとく)は中国(杭州)の若者で、許婚ば上役人から奪われたもんやケン、グラグラこいて貿易商の叔父ば頼って長崎に来たとゲナ。長崎に来た旻徳はクサ、丸山に足ば運ぶごとなり、筑後屋の遊女登倭(とわ)と出会う。登倭が許婚とそっくりやったもんやケン、恋仲になったていう。
バッテン、登倭に横恋慕した長崎代官がクサ、登倭から旻徳ば引き離すため、当時、多数出回っとったにせ金作りの犯人ば旻徳にかぶせ、元禄3年(1690)木駄の原で処刑させた。
悲しんだ登倭は、すぐにその亡骸ば貰い受け丸山の坂ぎわに葬ったていう。
これから後の話には、ふたつの説があって、ひとつは、葬ったそばで、自分も後ば追い自害して果てたていう説。
もうひとつは、旻徳ば葬った数日後、登倭は筑後屋で代官ば刺し、自分もその場で自害して果てたていう説。どっちにしたっちゃ、丸山の人は心優しか登倭の亡骸ば旻徳のそばに葬ったていう。
以来、ここば比翼塚て呼び、横の坂ば旻徳(ぴんとく)がなまって「ピントコ坂」または「おいらん坂」「傾城坂」て呼ぶごとなったとゲナ。
まあだまあだ長崎は数えられんぐらい坂ばっかしタイ
相生地獄坂・亀の子坂・五十段坂・ばってん坂・まるい坂・まんねん坂・亀の子坂・よしわら坂・ゆうれい坂・ロティ坂・おおいで坂・小川町の坂・館内の坂・厳流坂・けんか坂・県庁坂・金剛院の坂・ささやき坂・忍び坂・十人町の坂・玉園町の坂・天満坂・代官坂・ちこく坂・勅使坂・とりい坂・長 坂・西 坂・ピンコロ坂・豊後坂・ヘフリ坂・ミルスの坂・山崎屋の坂・頼朝坂・龍馬通りの坂 ・六角道・馬落とし坂・ざぼん坂・庄現坂・はらきり坂・打 坂・御手水の坂・かまぼこ坂・サントス通りの坂・宿ン坂(しゅくんさか)・十字架道・すいこみ坂・セントポール通りの坂・七曲がりの坂・ひこうき坂・病院坂・平和坂・力馬坂。地元のモンも全部は知らん。
上・活水女子大の正門と創始者のエリザベス・ラッセル女史銅像。
右・女の学校やケン、ガードが堅か。守衛さんに「娘がここの卒業生やケン、写真撮りに博多から来たとですバイ」いうて、特別に腕章ばもらい、中に入って撮してきた「活水」の校舎正面。