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イギリスから連れてきた 技師たちの宿舎 「鹿児島県」の目次へ | |
世界文化遺産 | |
国指定史跡・鹿児島紡績所技師館。通称異人館は、鹿児島駅から国道10号線ば日豊本線沿いに約15km東北にある。 建物は、明治15年(1882)に鶴丸城跡地にできた県立鹿児島中学校の本館として移転され、教官室として利用されとったもんば、昭和11年(1936)に七高造士館の本館が完成したもんやケン、現在地に再移築された。 白ペンキ塗木造2階建てのモダンな西洋館で、日本における2階建て住居としては最も初期のもので。西洋建築物の代表例のひとつとして学術的にも重要な遺物ていわれとる。 この洋風和モダンはイギリスで設計され、日本の尺貫法の技術で建てられた。洋風ながらもどことなく和のたたずまいが感じられるとはそのためか ? 当時の日本には無かった多面形のポーチは八角形の半分が表に出され、4面にはバルコニー、窓は全て透明のガラスが張られとった。 急に死んだ前藩主の斉彬は、洋式帆船建造のための帆布ば自前で製作するために紡績事業の必要性ば説いとった。 慶応元年(1865年)英国への留学生ば引率した五代友厚(ごだい ともあつ)や新納中三(にいろ ちゅうぞう)は、プラット・ブラザーズ社から紡績機械ば購入し、同時に工場建設や技師の派遣も依頼したていう。 紡績機械は開綿機・梳綿機、錘精紡機・力織機など150台余りがあったゲナ。他に蒸気機関も導入、翌年3月には司長イー・ホームをはじめシリングフォードなど4人の技師が鹿児島に入り、工場建設が始まった。 慶応3年(1867年)には、工場長ジョン・テットローが機械とともに到着、随行した2名の技師も加わって計7人となり、同年5月に日本初の洋式機械紡績所が竣工、勝手方用人の松岡正人が紡績所総裁に就任した。 原料の綿花はおもに関西方面から買い入れ、職工200人余りが1日10時間の就業で、180?ば紡いだていう。明治2年には白木綿6万5千反、かすり2千600斤ほどば生産しており、おもに関西方面で売却されとったていう。 進んどった藩主島津斉彬 | |
場所・鹿児島市吉野町。九州自動車道ば太宰府ICから約3時間。255キロ。5830円の「薩摩吉田」で降りて県道16号線ば約6km南下。国道10号線に出たら左折して300mで「異人館前」の信号に着く。 | |
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