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イギリスから連れてきた 技師たちの宿舎      「鹿児島県」の目次へ
 世界文化遺産                  

 国指定史跡・鹿児島紡績所技師館。通称異人館は、鹿児島駅から国道10号線ば日豊本線沿いに約15km東北にある。

 150年も前の慶応3年(1867) 島津家第29代忠義(ただよし)がイギリスから紡績機械ば輸入して、日本初の洋式紡績所ば作ったとき、その技術指導ば受けるために連れてきたイギリス人技師イー・ホームたち7名の宿舎として建てられたもの。

 幕末・慶応から明治初期の洋風建築(住居)として極めて貴重な建造物ということで、建物は国の重要文化財、敷地の一部は国の史跡に指定されとる。
 また、平成27年(2015)には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして、世界文化遺産に登録された。

 建物は、明治15年(1882)に鶴丸城跡地にできた県立鹿児島中学校の本館として移転され、教官室として利用されとったもんば、昭和11年(1936)に七高造士館の本館が完成したもんやケン、現在地に再移築された。

 その後、昭和56年(1981)に、瓦の葺き替えをはじめ内・外装の修理、平成21年(2009)〜平成22年にかけて耐震補強工事ばして現在に至っとる。

 白ペンキ塗木造2階建てのモダンな西洋館で、日本における2階建て住居としては最も初期のもので。西洋建築物の代表例のひとつとして学術的にも重要な遺物ていわれとる。

 この洋風和モダンはイギリスで設計され、日本の尺貫法の技術で建てられた。洋風ながらもどことなく和のたたずまいが感じられるとはそのためか ?

 当時の日本には無かった多面形のポーチは八角形の半分が表に出され、4面にはバルコニー、窓は全て透明のガラスが張られとった。

 周囲は回廊となっとるそうで、内装も豪華で天井や内壁にもクロスが張られ、お洒落な照明器具が設置されとるていう。

 技師たちの帰国後に勃発した西南戦争のときは傷病者の救護施設にも使われたていう。

 
 



館内には当時ば物語る写真やら資料も数多く展示されとるげなバッテン、駅長が行った日は、こづらにっかことに(博多弁で憎たらしか)あいにくの休館日で外観しか見ることがでけんやった。

 急に死んだ前藩主の斉彬は、洋式帆船建造のための帆布ば自前で製作するために紡績事業の必要性ば説いとった。
 5年後に起きた薩英戦争によりその重要性が再認識され、藩は西洋の学問ば奨励するとともに英国へ留学生ば派遣、西洋の新しか技術や機械ば積極的に導入することになった。

 慶応元年(1865年)英国への留学生ば引率した五代友厚(ごだい ともあつ)や新納中三(にいろ ちゅうぞう)は、プラット・ブラザーズ社から紡績機械ば購入し、同時に工場建設や技師の派遣も依頼したていう。

 紡績機械は開綿機・梳綿機、錘精紡機・力織機など150台余りがあったゲナ。他に蒸気機関も導入、翌年3月には司長イー・ホームをはじめシリングフォードなど4人の技師が鹿児島に入り、工場建設が始まった。

 慶応3年(1867年)には、工場長ジョン・テットローが機械とともに到着、随行した2名の技師も加わって計7人となり、同年5月に日本初の洋式機械紡績所が竣工、勝手方用人の松岡正人が紡績所総裁に就任した。

 原料の綿花はおもに関西方面から買い入れ、職工200人余りが1日10時間の就業で、180?ば紡いだていう。明治2年には白木綿6万5千反、かすり2千600斤ほどば生産しており、おもに関西方面で売却されとったていう。

進んどった藩主島津斉彬

 場所・鹿児島市吉野町。九州自動車道ば太宰府ICから約3時間。255キロ。5830円の「薩摩吉田」で降りて県道16号線ば約6km南下。国道10号線に出たら左折して300mで「異人館前」の信号に着く。 
 取材日2008.7.9

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