それはねぇ、対馬海峡ば制圧するためタイ。
設置された砲台は、戦艦「土佐」に搭載されとつた主砲やったゲナ。
なし戦艦の主砲ば、据え付けたとか ? それにはね、こげな理由のあったとタイ。
明治維新以降、富国強兵いうて海軍増強に努めるジャパン、ほかの主要国も負けん気だして軍備増強ば進めよったとバッテン、軍備に金のかかり過ぎて、各国とも台所は火の車やった。
そこで大正11年(1922)のワシントン軍縮会議でクサ「もうたいがいにしときまっしょうや」いうことになって、米、英、日が主力艦の所有率ば「5:5:3」てすることで調整が成立。それに合わせてオーバーしとる主力艦ば廃棄することいなったと。
ちょうどこの頃、日本で建造中やったとが戦艦「土佐」タイ。当時世界最大の戦艦やった「長門型」ば、さらに大きゅうした最新鋭戦艦やったとバッテン、会議で「手一本」ば入れてきた以上、キマリはキマリ。軍縮の取り決めば守って「土佐」は実験標的として沈められてしもうた。
本来なら主砲も解体せないかんとやろうバッテン、そこはそこ、主砲だけはなんとかゴマクラカシて隠しとったらしか。そして、この砲台に据え付けたちゅう訳よ。
黒崎砲台は昭和8年に完成。ミサイルやなかけん、当たるか当たらんかはともかく、この大砲、射程距離が35kmもあったげなケン、近くば通る船には脅威やったに違いなか。
砲身の全長 18m
砲身の重さ 150t
砲の口径 40cm
弾丸の直径 40cm
弾丸の重量 1000kg
ただし実際には一回も使わんまま、ということは弾は一発も撃たんまま、太平洋戦争に負けて、昭和25年には、ほんなことい解体されてしもうた。
戦艦「土佐」の主砲として生まれながら、なんとも不運な砲門やった。
とんでもない飛距離から東洋一の砲台て呼ばれとったバッテン、壱岐では「いかず後家」じゃなかバッテン、「撃たずの大砲」て、のちのちまでひやかされるハメになつた。
砲台は普段、地下に隠し、必要時に大きな穴ばエレベーターのように移動して、地表へ出す構造やったようで、まさに地下要塞タイ。
戦時中は、住民でさえこの付近への立ち入りは禁止されとったゲナ。
馬鹿馬鹿しか戦争の遺産であることには、間違いなか。
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