このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

なんでこげん田舎に、こげん立派な教会があるとぉ ?      「福岡県」の目次へ
 福岡県・指定文化財
 

 江戸幕府が出した禁令で、日本国内のキリシタンはひどか弾圧と迫害ば受けた。
 それでもなお、多くの信者は隠れキリシタンとなって信仰ば続けた。
 その集落は、長崎と熊本県の天草地方が主で、ほとんどは離島か僻地やった。

 教会の行事があっていない限り、中も拝観できる。9時〜5時。ただし、写真撮影は禁止されとる。
 駐車場は広かケン、信者さん用のが空いとれば、自由に置いてヨカ。駐車場にはトイレも完備しとる。

 いつごろから、この地にキリシタン信仰が始まったとかは、教育委員会も皆目分からんらしかバッテン、太刀洗の南の久留米はクサ、藩主有馬氏の前にここば支配した毛利秀包の嫁さんが、キリシタン大名・大友宗麟の娘やったケン、もともとこのあたりは支配層がキリシタンに寛容やったとかも知れん。
 
 慶応3年(1867)に、長崎の信者が探索に訪れるまで、300年もの間、完全に孤立したまま密かに信仰ば守り続けてきた奇跡の集落やった。

 キリスト教が解禁されて、今村に初めて神父さんが赴任しなったとは、明治12年(1879)年で、フランス人の宣教師ジャン・マリー・コールていう人やった。師は、信者青木才八の土蔵で初めての正式なミサば執り行っなったていう。

 明治14年(1881)、信者達が敬愛した殉教者ジョアンヌ又右衛門の墓があったここに、やっと建てられた教会は、間口6間・奥行き10間の木造やったゲナ。

 ふたつの塔ば持つロマネスク風な今の天主堂は、明治41年(1908)、5代目の本田 保神父によって計画され、ドイツ信者からの寄付と、地元信者の労力奉仕で、明治44年(1911)から大正2年(1913)にかけて作られた。

 棟梁は鉄川与助(1879年〜1976年)
 鉄川は明治から昭和にかけて活躍した教会建築の大棟梁で、もういまは消滅したものも含めると、生涯に数十件の教会建築に関わったていわれとる。

 天草の崎津天主堂、大江天主堂、田平天主堂などが有名バッテン、大浦の天主堂の大司教館もそうゲナ。

 今村天主堂は12作目の建物。

 ロマネスク様式の建物バッテン、パリ郊外の農村にある教会以上に教会らしかとも与助が長崎県五島の出身という生い立ちなどから、クリスチャンの文化が人一倍身体にしみとったせいやろう。

 ふたつの尖塔ば持っとる建物は与助にとっても初めての設計やったらしか。

 左右非対称で、向かって左には鐘楼が入っとる。

 ミサの時、結婚式の時には、筑後平野にキンコロカンて鐘の音が響くとやろう。

 煉瓦造りの教会としては、貴重な存在で全国赤煉瓦造り建築物の番付で、西の横綱(東は東京駅)にランクされとるとタイ。2006年に福岡県の文化財に指定された。

 ステンドグラスはフランス製。柱は高良山の杉。瓦は城島の「荒巻」。レンガは神崎迎島の5工場に特注したもんゲナ。
 教会内部に掲げられとるキリスト受難の絵は、14枚あってフランス製。外部・内部とも作られた当時の状態が、そのまま保たれとるちゅうとが凄か。

 朝日の当たりが写真によかろう思うて、早朝に行ったら、掃除しよった司祭館のおばちゃんが、カギを開けてくれて、中も見せてくれた。

 おばちゃんの「ちっご弁」と、この教会の雰囲気が、同じ温もりのあって、全然違和感がなかった。

 場所・大刀洗町。国道3号線、鳥栖ICの南に曾根崎という信号がある。福岡からやったら、これば左折して県道14号線ば、端間を通り越して、東へ東へと行く。大刀洗町に入って鵜木の信号ば越したら、右側に教会の尖塔が見えてくる。案内板から右折。
九州高速大分道なら、筑後小郡で下りて、そのまま県道53号線ば南下。3.5kmで鵜木の信号左折。   取材日 2007.10.18

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 ところがクサ、例外的に福岡の稲作地帯の真っ只中に、隠れキリシタン集落があった。それがここ、大刀洗町の今村タイ。

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