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治水の神様、成富兵庫茂安の傑作        「佐賀県」の目次へ

 長崎自動車道の佐賀大和インター近くに、嘉瀬川と多布施川の分流点がある。

 ここに、いまから約400年前に造られたとが「石井樋(いしいび)」ていう水路で。日本でも最も古い利水施設のひとつていわれとる。

 これば造った成富兵庫茂安(なりどみ ひょうご しげやす)は、佐賀の治水の神様ていわれとる。

 昭和35年、上流に川上頭首工(かわかみ とうしゅこう)ていう新か取水施設が作られるまで、水不足や水害から佐賀平野ば守り続けてきた。

 それだけに歴史的・文化的な価値が高っか土木遺産ていう訳。

上から石井樋の取水口。復元後の石井樋。復元工事中。右・石井樋公園の入口。


 土砂がまざった嘉瀬川の水は象の鼻で流れが川の中央に寄り、大井手堰にぶつかる。そのとき水に含まれた土砂の一部が川底に沈む。大井手堰にぶつかった水は逆流してゆるやかな流れになり、土砂ば少しずつ川底に沈めながら象の鼻と天狗の鼻の方へ流れていく。象の鼻と天狗の鼻の間ば通るうちに、さらに流れはゆるやかになり、土砂の混ざらんきれいな水だけが石井樋から多布施川に流れていくいう訳。

 頭首工ていうとは、川に流れる水ば農業用水として水路に引き込むために設ける堰や取り入れ口のこと。頭首工ていう名前はクサ、水の流れば人間の体に例えた場合、水路は体の末端の手足、大もとの頭首工は頭や首ていうところからきとる土木の専門用語。

 駅長も石井樋のだいたいのことは知っとったバッテン、石井ていう場所にある「樋」やケン「石井樋」やろうて思うとったら、石ででけた「井樋」やケン「石井樋」が正しかった。こうと分かれば発音も、「いしい び」じゃのうてクサ「いし いび」てならないかん。ああ、日本語ちゃどうした難しかもんかいね。

 川上頭首工がでけてから、現役ば引退した格好の石井樋は、土砂で埋まったり一部は洪水で流されたりして地域の人も忘れとんなったとバッテン、平成5年度に皇太子ご成婚ば記念した歴史的水辺整備事業(全国で9 箇所)いう制度があって、そのひとつに石井樋が選ばれた。
 国の予算がついたもんやケン、県・市も元気になって整備ば進め、平成17年(2005)12月、成富兵庫茂安が造ってからは約50年ぶり、工事始めて12年ぶりに復元されたいう訳。

左・工事中の石の樋門。  右・完成後の樋門、こっから嘉瀬川の水が多布施川に取り込まれる。

 石井樋には成富茂安苦心の跡があちこちに見られるとバッテン、そのひとつ、付近の堤防は二重になっとって、その間に遊水地ば作っとる。1番目の堤防ばあふれた水が2番目の堤防にたどり作までに勢いが弱くなるていう仕掛け。洪水の被害が大きくならごと工夫したもんていわれとる。また、川のそばに竹ば植えて、水の勢いば弱めたり、大きな石や流木などば人が住んどる土地まで流さなんごとしたりしとった。

 龍造寺家の家臣、成富甲斐守信種の次男として永禄3年に現在の佐賀市鍋島町増田に生まれた。幼名は千代法師丸。

 子供のときから手のつけられん暴れ者やったとバッテン、父親が「いうこと聞かんやったら殺す」ていう覚悟で説得したら人が変わったごと改心し、勉学に励むごとなった。

 15歳で龍造寺隆信が大友の大軍ば相手にした時、その戦に加わっとって勇敢さば認められ、小姓として取り立てられた。

 隆信が死んだ後は、龍造寺ば引き継いだ鍋島直茂に仕え、直茂の一字ば与えられて兵庫助茂安て改めた。

成富兵庫茂安とは

 島津攻めから朝鮮の役、関ヶ原の戦い、大坂の陣のいずれにも従軍し、そのたびに大きな功ば挙げてきとる。

 豊臣家の時代となって、加藤清正と出会うてからは、彼の手がけた名古屋城や熊本城の築城ば助けたほか、江戸の町づくりにも参加した。この経験が、「沈み城」の別名ば持つ佐賀城の設計にも役に立ったほか、水害の防止や新田開発、筑後川の堤防工事や潅漑事業、上水道の建設など、様々な鍋島藩の政策に生かされた。

 このため、江戸期ば通じて佐賀藩では水争いや百姓一揆による暴動がほとんど起こらんやった。彼の手がけた事績は細かい物も入れると100ば超えるともいわれ、300年以上たった現在でも稼働しているものもある。

 功名ば追わず、民の声ばまず聞く姿勢は、佐賀鍋島藩の武士道の教書でもある「葉隠」にも紹介されて、影響ば与えた。

 1634年、死去。その内政手腕は明治時代になって明治天皇からも褒められたぐらいやった。佐賀藩が明治時代まで続いたとは、その基礎ば作り上げた茂安の功績てもいわれとる。

 佐賀市兵庫町(旧佐賀郡兵庫村)いま、国道34号線と佐賀バイパスの北分岐点あたりを、兵庫町て云う。成富兵庫茂安が住んどったけんタイ。
 また、かつて三養基郡内にあった北
茂安村・南茂安村(いずれも現在の三養基郡みやき町の一部)も彼の名前が残されとった。

 加藤清正ば振った
 肥後の領主になって九州に来た加藤清正は、暴れ川「白川」の治水に頭ば痛めとったケン、当時二千石の侍大将だった茂安ば一万石で召抱えよう(引き抜き)てしたとバッテン、茂安は「たとえ肥後一ヶ国ば賜るとも応じがたく候(熊本全部ばやるいうても行きまっせん)」て断ったてゲナ。
 清正は鍋島に対する茂安の忠誠心に感涙したていわれとる。

 永池の堤・白石平野の水不足解消。
 鍋島藩最大の三段堤。杵島山の谷の北方町永池に上・中・下と三段の大きな堤ば作った。こここに133万立方メートル(25メートルプールでいうと約2,700個分)の水ば貯めた。
そして、ためた水ば白石平野におくるため、村の人たちといっしょに長さ2180メートルの水路ば作った。
 この永池の堤の水は今も白石平野(しろいしへいや)の田畑に必要な水を送り続けとる。

 千栗の堤防・筑後川の洪水予防に、以前の佐賀県三養基郡南茂安村から北茂安村まで、12年かけて東西12キロにわたって造った堤防。
 12年かかったとは、地元農民が田や畑仕事のたいへんな時には無理ばさせず、わざと長い年月ばかけて工事ば進めたケンていわれとる。
 これのお陰で筑後川は佐賀のほうへは溢れず、久留米のほうにばっかり氾濫したケン、久留米からは「鬼の茂安」て云われた。

 桃の川の水路・伊万里市の東にある桃の川では、まわりの土地が川より高っかため、 川の水がうまく引けずに昔から水田ば作ることができんやった。
 茂安は桃の川の近くば流れる松浦川の上流に井関ば作り、川の水位ば上げて、 取り入れ口から水路に水が流れるようにした。
 また、水路のとちゅうに戸立て(とだて)ていうとば作って、東分(ひがしぶん)、上原(うえはら)、下分(しもぶん)の3つの地区に水ば分けて流がすごとした。

 蛤水道・蛤岳は田手川の上流の水源となる脊振山地のひとつやったとバッテン、ここからの水は筑前の那珂川に全部流れこんどった。
 茂安は、この蛤岳の水がたまりやすいところに井手ば作り、たまった水ば山の斜面に作った長さ1260mの水路から田手川へ取水した。
 水ば取られて水不足になった黒田藩では水道の破壊が計画されたほどやった。
 茂安はその後「野越し」ていうオーバーフローの堰ば作り、筑前側にも水が流れるように改良して、水争いにならんごとしたていう。

左・取水口から取り込まれた嘉瀬川の水は公園内ば石門までゆるやかに誘導される。右・成富茂安・水功の碑。

 場所・佐賀市。長崎自動車道ば大和ICで下りたら、二俣道の右をとって約1km南下すると石井樋入口ていう信号があるケン、右折すれば500mで「石井樋公園」に突き当たる。資料館の「さが水ものがたり館」は料金タダ。月曜だけが休館。駐車場は30台止められてこれもタダ。             取材日 2005.03.01/2008.12.03

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