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白蓮さんの人気で見学者殺到、飯塚市もタジタジ     「福岡県」の目次へ
飯塚市有形文化財


 平成19年(2007)4月28日 GWの初日に、それまで眠っとった飯塚市の旧伊藤伝右衛門邸が一般公開された。

 伊藤伝右衛門いうたら、庄屋出身の「麻生」 炭鉱夫の「貝島」 黒田藩士の「安川」ていう筑豊御三家といっしょに「筑豊の炭鉱王」て呼ばれとるバッテン、炭鉱だけじゃのうて金融やら工業などでも成功ば収めた男タイ。
 また歌人の柳原白蓮(やなぎはら びゃくれん) ば後妻にして、若っか男と逃げられてしもうたいうエピソードなどでも有名タイ。

 この建物は伊藤伝右衛門の本邸として明治30年代後半に建てられ、大正初期、昭和初期に何回かの増改築がされたけど、ほとんど当時のまま残っとったとゲナ。

上・池のある回遊式庭園ば見下ろす白蓮のための特等席が右の二階建。下・堂々たる玄関。

 平成13年に持ち主の日鉄鉱業から飯塚市へ売却の申し出があったもんやケン、市では「地元の貴重な歴史的遺産が存続できる方策ば探ろう」いうことで具体的な検討に入り、旧伊藤伝右衛門邸ば核にした飯塚の地域振興事業ば考え出した。これが国土交通省から「まちづくり交付金事業」に認可され、2006年度から5年間、総事業費の4割ば国から補助されてきとる。

 2007年度末までの事業費2億4900万円のうち、交付金が約8000万円ば占め、うち約3600万円が道路特定財源やった。道路特定財源いうたら、いまはもう無うなったけどガソリンからピンハネしよった税金タイ。

 また地元では取得ば支援するため、民間団体など35団体が結集し「旧伊藤伝右衛門邸の保存ば願う会」(現在は旧伊藤邸保存育成会)ば設立したりして、署名活動やら募金活動で盛り上がっとった。

 飯塚市はこれらのカネで平成17年(2006) 日鉄鉱業から土地ば1億4900万円で買い、建物は無償で貰うことになった。

 この旧宅は敷地が約2300坪もあり、地元では赤銅御殿(あかがねごてん)て言われた超豪邸タイ。

 伝衛門は普請道楽やったげなケン、杉材の選定なんかには、わざわざ自分で小石原まで出かけよったていう。

 初めは平屋建てやったとバッテン、炭鉱事業が当たってから北側ば大きゅう買い足して、庭園付きの豪邸になっていった。

 昭和2年に漏電で焼けた福岡市天神町の別邸から移築された長屋門は、観音開きの扉が桧の一枚板ででけとって貫禄がある。

 邸宅は家屋5棟(南棟、北棟、角之間・中之間、玄関・食堂、繋棟)と、土蔵3棟からでけとる近代和風住宅で、池のある回遊式庭園が建物の北に広がる。

 建物の中は延床面積が300坪もあってさすがに広か。直線の廊下が50mもあつて、端から端まで歩こうちゃ、年寄りは骨がおれる。

 しかしその広か屋敷も、2007年4月28日のオープン当日には、押し寄せた見学者が多すぎてクサ、床が抜けはせんかて心配なぐらいぎゅうぎゅう詰めやったらしか。

 2階にある白蓮さんの部屋の見学なんかは、床の強度の問題で1回3分20人に限定されたもんやケン、順番待ちに30分以上並んだていう。

 
オープン以降も、白連人気で熟年女性中心に観光客が詰め掛け、飯塚市は当初年間の来館者ば1万5000人程度て予想しとったとが、一般公開から1ヶ月で5万人。半年で10万人。1年目では25万人。2008年10月には30万人ば突破。

 2009年3月1日「筑前いいづか雛(ひいな)のまつり」には、1日の入場者が3.802人ていう最高ば記録しとる。

 飯塚市観光課と商工会議所にとっては、予想外のブームになって嬉しか誤算て云いよんなるバッテン、素通り観光だけで地元に大きな金の落ちよるごとはナカ。

上上・長屋門に架かる新しか看板は麻生太郎の筆による。ほんなこと本人が書いたとかて思うほどヨカ字ば書いとんなる。
中上・福岡の銅御殿(からがねごてん)から移した長屋門と高い塀は、旧長崎街道に面しとる。
右上・玄関の鬼瓦とマントルピースの煙突。
左上・軒先の留めの瓦には「伊・藤」とあって、ここまで凝るか。
左・明治44年 白蓮が輿入れしてくるケンいうて、平屋建てに2階が増築され、ここが白蓮の個室になった。

上・明治のコレクションでいっぱいの納戸部屋。(室内は全部こそっと撮った)
左・1階の応接間とこの部屋だけが洋間でアール・ヌーボー調。
写真では分からんバッテン、明治のガラスやケン、凹凸があつて、そのため庭の景色がひずんで見えとるとが面白か。

 さあて、当主の伊藤伝右衛門(いとう・でんえもん)やが、万延元年(1860)にこの幸袋で生まれた。長男やったけど家が貧しゅうてクサ、超難儀(ここシャレ)しとったケン、学校にも行けんやったゲナ。

 若っかころは丁稚、魚の行商、船頭など転々としながら生活ば続けとったとやが、父の伝六と手掛けた炭鉱が、官営八幡製鉄所に巨額で買い上げられたことから、あれよあれよで筑豊の炭鉱王になっていった。資金があるもんやケン、銀行やらも手がけて、明治36年には衆議院議員にも当選しとる。

 しかし、明治43年 伝右衛門と長年苦楽ば共にした妻ハルが45歳で病死。
 その後、後妻ばもらえいう話があっちこっちから舞い込んできてクサ、運命の女性、歌人・柳原白蓮(やなぎはら・びゃくれん)と再婚することになるとタイ。

 白蓮の本名はあき子(あきはコンピューターに文字がなか)ていい、大正天皇の従妹にあたる人やった。
 明治45年、骨のズイまで炭坑に浸かっとった伝右衛門はもう52歳。その伝右衛門が当時27歳で「大正の三美人」て呼ばれとったお姫様と再婚した。

 「なんでぇーッ、うそーッ」ていうぐらい、たまがる話やが、こそーっと裏話ばバラせば、白蓮の兄・柳原義光が貴族院議員に出馬するとい資金が必要やったけんゲナ。炭鉱王の莫大な資金と引き換えの政略結婚いうて当時のマスコミ(まあだマスコミいう言葉はなかったろう)に騒ぎ立てられたていう。

 「金襴鍛子の帯締めながら、花嫁御寮は何故泣くのだろう」ていう歌やら、菊池寛の「真珠夫人」ていう小説はこの「売られた花嫁」白蓮がモデルやろうていわれとる。

 いびつなカップルやったとバッテン、結論からいうと、伝右衛門と白蓮の結婚生活は10年間続いた。
伝右衛門は大正天皇の従妹ていう白蓮のために、奥座敷に2階ば増築して白蓮の居室とした。
 数奇屋風の部屋に、銀箔ば張った襖など白蓮好みに仕上げたり、天井に結界(けっかい)ば設け、ほかのもんはこれば境に立ち入り禁止にするなど、伝右衛門は白蓮に精一杯気ば遣うとる。トイレも当時では珍しか水洗トイレば作ってやったりしとる。

 行ってみたら分かるバッテン、玄関の上がり框も和服の白蓮のために和服の裾が乱れんごと、段ば低うしたりして、心ば配った造りがあちこちに見受けられる。

 輿入れしてきてすぐに白蓮が、朝はパン食ていいだした。東京では当たり前でも当時幸袋にはパンなんてあるもんかい。
どうしたかていうと、外国船の出入りでベーカリーのあった門司港まで人ば買いに走らせたていう。また、伝衛門もパン食に変えたていう。 

 バッテン、いくら気使うても25歳ていう年の差に加え、華族出身で誇り高っか白蓮が筑豊の荒くれだった炭坑町の空気に馴染むわけはなか、二人の心がほんなことに結ばれたては言いきれん。

 その頃、伝右衛門は天神町にあった伊藤家の別邸・赤銅御殿(あかがねごてん)ば白蓮のために大改装しよった。とつけむなか超豪華なもんやったげなバッテン、残念ながら、完成したとは離婚の後やったケン白蓮はこの豪邸に住むことはなかったていう。「天神に残っとる赤銅御殿の塀」ラストのお楽しみ。

 さらに残念ながらこの豪邸は昭和2年(1927)、漏電のために全焼、いまは昭和通りのビルの間にレンガ塀の一部がちょこっと見えとるだけ。

 白蓮自身は、世間が心配するごたる「売られた花嫁」ていうわけではなかったろう。自分なりの夢ば抱いて伊藤家に嫁ぎ、伝右衛門も若い妻ばいたわり、せいいっぱい可愛がったつもりやろう。

 短歌に打ち込む妻のために大金ばかけて豪華な歌集ば出版してもやった。この処女作「踏絵」以降、白蓮は中央歌壇にも認められ、次々と作品ば発表、やがて 「筑紫の女王」てまで呼ばれるようになる。

 しかし、いくら贅沢な生活ば送り、名流夫人としてもてはやされても、妻と妾が同居するような家で、無学な夫との生活は、心満たされるもんやなかった。そんな白蓮の前に現れたとが、宮崎龍介やった。

 白蓮35歳のとき、7歳年下の雑誌「解放」の記者・宮崎龍介(宮崎滔天の長男)との出会いは、成り上がりで無学の伝右衛門と比べ、東大出のインテリで年下の龍介に白蓮の心は狂わせられた。

 姦通罪のあった時代の恋は命がけやったろうバッテン、白蓮は春秋2回の上京ば機会に龍介と逢瀬ば重ねて、やがて白蓮は龍介の子ば宿した。

 1921年(大正10年) ついに白蓮は伊藤伝右衛門と上京した時、東京駅で伊藤伝右衛門の前から姿ば消した。10月22日の朝日新聞は「筑紫の女王、柳原白蓮女史失踪!」て報じた。内容は「同棲十年の夫ば捨て、情人の許へ走る」ていう週刊現代ばりのもんやった。

 そして白蓮は、朝日新聞紙上に流麗な文章で、伝右衛門への「公開絶縁状」ば掲載した。それには「私は金力を以つて女性の人格的尊厳ば無視する貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊厳を護り且培ふ為めに貴方の許を離れます」てあった。

 著名な歌人で「筑紫の女王」て呼ばれた白蓮が炭鉱王ば捨て、7歳年下の愛人と駆け落ちしたていうスキャンダルに世の中は唖然とした。これが、ちょっとオーバーにいうと、日本近代史に残る世紀の恋愛事件でクサ、世に言う「白蓮事件」ていう訳タイ。

 伝右衛門は男らしかった。親族のなかには「そげな女は四つに畳んで遠賀川に叩きこめ」て腹かくもんもおったバッテン、伝右衛門は白蓮に手ば出すことば禁じ、白蓮ば話題にすることも許さんやったゲナ。

 そして「大阪毎日新聞」に「絶縁状ば読みてあき子に与ふ」て題する一文ば掲載した。それは「白蓮との結婚生活は俺の一生の中で、最も苦しかった十年やった」ていう苦渋の表現やったバッテン、白蓮と龍介ば姦通罪で起訴することはせんやった。

 伝右衛門はその後、生涯後妻ば迎えることなく、炭鉱始め多くの企業の経営に没頭した。太平洋戦争中には自費で戦闘機やらば国に献上したり、あかがね御殿ば海軍に無償提供したりしとる。
 そして、戦後まもない昭和22年(1947)12月に、数え88歳の天寿ば全うしたていう。
 この伝右衛門、生涯通じて文盲やったていわれとる。


 白蓮のほうはていうと、この一件で、兄義光が貴族院議員ば辞職することになった。白蓮は男児(香織・かおり)ば出産した後、断髪して一時尼寺に身をよせとったバッテン、非難轟々と渦巻くなか、龍介との愛ば貫き通し、やがて伝衛門との離婚が成立。龍介が結核におかされた時期は白蓮の筆一本で生活しよったていう。

 大正14年(1925)には長女の宮崎蕗苳(ふきこ)が誕生。龍介は結核が治って、その後弁護士として活躍したていう。終戦直前の昭和20年(1945)8月11日、長男の香織が鹿屋で戦死。
 このことがきっかけで戦後の白蓮は平和運動に参加するごとなり、熱心な活動家として知られとった。

 昭和36年(1961) 緑内障で両眼失明。龍介の介護のもとに歌ば詠みつつ、貧しいながらも幸せな結婚生活ば送ったていう。白蓮が亡くなったとは、昭和42年(1967)81歳やった。
 龍介はていうと、白蓮が死んで4年後の昭和46年(1971)に逝去、78歳やった。
 二人が死ぬまで暮した家は、西武池袋線旧上屋敷(あがりやしき)駅近くにあり、いまも子孫が暮しとるていう。


 伊藤伝衛門と白蓮 ストーリイ
 天神でついに見つけた「赤銅御殿」の遺跡

 これが赤銅御殿の「塀」だ。「へー」
 場所は天神。昭和通り福銀本店の裏から西へ100m
l。りそな銀行駐車場入口のひだり手、コーピショップタリーズ(TULLY'S ) の裏ば見上げると壁の一部がちょこっと見える。このビルは伊藤ビルいうて伊藤伝衛門の子孫のものゲナ。

 なんか残っとるハズて、駅長が汗かいてクサ、天神そうつきまわったすえ、やっとみつけた赤銅御殿の煉瓦塀の一部。物好きねぇ。

 場所・飯塚市幸袋。飯塚市の水江交差点から国道200号線ば北上約600m。許斐神社の信号で新しか左の道へ分岐。神社の歩行橋ばくぐって100m先の左が伊藤伝衛門邸観光用の駐車場。市の整理担当職員が気持ちよく迎えてくれる。駐車場から真っ直ぐに国道の信号ば越すと50mで左に長屋門が待っとる。九州自動車道からやったら、八幡ICで下りて国道200号バイパスば15km南下すれば水江交差点に着くケン、右折すればヨカ。    取材日 2009.04.23

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