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豊後の山ん中に1400年も経つ、真言の寺       「大分県」の目次へ

 神角寺(じんかくじ)、山号は如意山(にょいざん)。

 大分県豊後大野市朝地町、標高730mの神角寺山の頂上近くにある高野山真言宗の寺院。

 境内には樹齢100年ば超えるていう約500本のシャクナゲがあるケン、別名石楠花寺(しゃくなげでら)ても呼ばれとる。

 5月。シヤクナゲが咲くときには、多くの参拝客か花見客か分からん人たちが大勢訪れる名所になっとると。

 この神角寺はクサ、霊山寺、円通寺とともに豊後の三大寺院てもいわれとる。

 神角寺ば含む地域一帯は、大分県により神角寺芹川県立自然公園に指定されとるケン、車で走っても広かひろか。




右・深か木立のなかに上品な本堂が建つ。
下・桧皮葺の屋根、庇のソリが何ともいわせんカーブで気持ちよか。

 もともと神角寺は、欽明天皇の31年(570)に新羅の僧によって建立され、醍醐天皇(897〜930)の時代に聖宝によって真言宗の寺にされたて伝えられとる。

 駅長の家の近くに「チィー坊食堂」いうとのあるバッテン、発音のよう似とる聖宝(しょうぼう)いうとは誰かていえば、平安時代初期の真言宗の僧でクサ、当山派修験道の祖ていわれとる人げなタイ。天智天皇の6世孫にあたるていう。朝廷から贈られた号は理源大師。「チィー坊食堂」とは全然関係なしやった。

 空海の弟の真雅(しんが)に、真言密教(真言宗)ば学んだていう。権勢と一定の距離ば置いて、清廉潔白・豪胆な人柄として知られとんなったらしか。

 役行者に私淑して、途絶えとった修験道修行ば復興したことでも有名か坊さんタイ。それがなし豊後の山ん中の神角寺と関係があったとかは分からん。役行者のごと神通力で自由に飛んで来よんなったとかもしれん。

 建久7年(1196)には、大野荘の領主やった大野九郎泰基(やすもと)が、大友氏の初代当主で豊後守護として入国してきた大友能直との合戦に破れ、この寺で自害しなったていう生臭か話も残っとる。

 その後、戦火のため荒廃してしもうとったとば、応安2年(1369)に大友氏が現在の本堂(当時は東坊)含む六坊ば寄進して中興したていう。

 今はその一つの東坊が本堂として残り、早々と明治40年、国の特別保護建造物に指定され、昭和25年重要文化財に指定されとる。

 その本堂は、宝形造、富貴寺とよく似た方形の桧皮葺、正面3間・側面3間の簡素な堂で、専門家に云わせると、平安・鎌倉両方の古か禅宗様式ばそのまま残しとるとゲナ。

 上の写真でも分かるごと、隅棟の反りがとても美しか。

 この本堂の内陣には秘仏「観世音菩薩」が安置され、17年ごとに御開帳。33年に1回
本開帳されるゲナ。
 そげーん勿体ぶらんで毎年、開帳してつかぁさいや。



左・本堂の建築は素人目にもしっかりした骨組みで、深い軒先は見事なもん。
下・ご開帳まで待っとられんケン、こそーっと本堂の中ば撮ってきた。

 昭和57年に重文指定受けた山門の木造金剛力士立像一対は、高さ約2.5mの寄木造り彩色の像は、鎌倉時代前期の作ゲナ。

 京都で修復しよるとき、一枚の木札が体内から出てきてクサ、表に献上した47人の名前が書いてあったゲナ。
 調べてみたら、弘安の役の頃に国の安全ば祈って、荘園領主、地頭が、こぞって仁王ば献じとったことが分かった。
 彫ったとは運慶の弟子(慶派仏師)らしかバッテン、名前は分かっとらん。

 また木札裏には、岡藩主の中川久忠が京都の大仏師山本左門に頼んで、大修理した事が書かれとったていう。

 昭和55年、奈良国立博物館長倉田文作の目にとまり「こらぁ鎌倉時代の木彫りで、運慶の作風ばもっとも正しく伝えたもんタイ。九州ではただ一つしかなか傑作バイ」ていうことで国の重要文化財に指定されとると。

「静的な表現の中に力強さが潜む」て、解説ではなっとるバッテン、実際に行ってみると、山門の中に網入りのガラスで囲われとんなって、近よりもされんし、よう見えもせん。

 写真ば撮らせんとは仕方なかにしても、みんなに、もちぃーったあ、身近に見て貰う工夫はでけんとやろうか。
 重文に指定するとはよかバッテン、こげん参拝客から隔離してしもうて、なんの重要文化財か。ていいとうなる。ここだけじゃなか。何処の国宝も重要文化財もそうタイ。

 指定するだけじゃ、能がなかと。文部科学大臣と文科省の役人はクサ、チャンと保存管理しながら、よう見て貰える方法ば考えな。隠しとったっちゃ一銭の値打ちもなかとバイ。腹の立ったケン、ガラス越しに写真ば撮ってきた。

 上・「国見の鼻」にほったらかされとった宝篋印塔(ほうきょういんとう)。なんかいわくのあるとやろうバッテン、なぁーも説明がなか。
 宝篋印塔いうたら、鎌倉時代中期からある密教系の塔でクサ、宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)ば納めたケン、この名が付いとると。墓石やら供養塔にも使われとって、下から基礎・塔身・笠・相輪からでけとる。ここんとは相輪の段形が、なんかば想像させて面白か。



 寺の裏手に回ったら、そこは標高750メートルで、久住連山、阿蘇連山がピシャリ見えた。
 そのむかし、あてにはならんバッテン、為朝の伝説が伝わっとったり、平安時代には神角寺城砦として、大野九郎泰基がここで大友の大軍と戦うた場所らしか。確かに戦うには絶好のポイント。なしむかしの武将達はごげな場所見つけるとの上手かったとやろうか。

 岡藩・中川の殿様は、歴代この寺ば大切にしとんなって、仏閣の修理やら整備に熱心やったらしか。ここに参詣するたんびに、必ずこの場所から藩内ば見とんなったケン「国見の鼻」て呼ばれるごとなったとゲナ。

 帰りに朝地へ下りてきよったら、あんまり車の通りもせんごたあ農道でお巡りが検問しよった。

 ここに来る前の日に「もみじマーク」ば590円で買うてきて、チャーンとつけとったケン、咎められんで、親切に近道まで教えてもろうた。


右・神角寺山門。この中に金剛力士が囲われとる。
 前庭は貸し切りバスが何台来たっちゃよかごと広か。

 場所・大分県豊後大野市朝地町鳥田。大分自動車道ば利用するとやったら、大分米良ICから国道10号線ば犬飼まで南下し「久原」信号で右折、犬飼大橋を渡ってそのまま国道57号線を西へ約13kmで、右に神角寺への大きな案内看板が立っとる。せまか曲がりくねった山道ば5kmで山門前の駐車場に到着。熊本からやったら国道57号線で朝地ば通り越し、約8kmで案内板が左手になる。                         取材日 2008.09.04

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