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崖に建っとるもんやケン、信者さんな階段がたいへん   「長崎県」の目次へ

 長崎から野母半島方面にはとても行きやすうなった。

 長崎自動車道から出島道路経由すれば、出たとこが市民病院のとこやケン、左折するともう大浦海岸通りタイ。以前のごと長崎バイパスから入って、市内ばツン抜けたりせんでよかごとなった。
 しかも出島道路、料金は軽なら100円。安かもんタイ。

 慶応元年(1865)にトーマス・グラバーが日本で始めて蒸気機関車ば走らせた大浦海岸通ばクサ、南へ3kmも走ると「女神大橋」が見えてくる。別名ヴィーナスウイングなんて洒落た名前ばもろうとるけど、長崎湾口に架かる大きな斜張橋(しゃちょうきょう・ようするに近代的な吊り橋タイ)。

 100円払うて長さ880mの吊り橋ば渡るともうそこが神ノ島。今は埋め立てられて陸続きとなっとるバッテン、江戸時代には長径が1kmほどの小さか島で、禁教の時代には切支丹が隠れるとい都合の良か場所やった。

 神ノ島の信徒は矢上・諌早・佐賀などから移住してきた人で占められとったていう。

 250年以上もの長い間、子から孫へと何代も信仰ば守り続けとんなった。

 徳川幕府の禁教令が発布された3年後の元和3年(1617)。神ノ島の沖合いに浮かぶ高鉾島(たかほこ)で、殉教事件が起った。

 宣教師ばかくまっとった宿主のガスパル上田彦次郎とアンドレア吉田の2人が役人に捕らえられ、元和3年(1617)10月2日に首ば刎ねられてしもうた。

 悲しかこの事件は、長崎でキリシタンが処刑された最初の事件となった。

 そしてこの事件以降、キリシタンに対する弾圧が大村・島原などでいちだんと厳しさば増していくことになった。

 それでオランダ人は尊敬の念も込めて、高鉾島ばパーペンベルグ(キリシタンの島)て呼び、殉教した2人は20年後の慶応3年(1867) 福者の列に加えられた。

右は教会の窓から見える西兄弟の墓と高鉾島。

 1853年のペリー来航ばきっかけに、日本は鎖国に終わりば告げて開国した。世界五カ国と修好通商条約ば結び、近代化に向こうて歩み始めた。

 パリ外国宣教会(カトリック系)から派遣されたフランス人のプチジャン神父は、長崎の南山手にでけた外国人居留地に、日本二十六聖人のための大浦天主堂ば建てた。しかし日本で宣教活動ばしたくても、まだ禁教令は解かれとらん。

 厳しか弾圧に耐え、潜伏しながらマリア信仰ば心のよりどころに、先祖から伝えられた「パードレの再来」ば信じとった浦上村の信徒が、大浦天主堂ばこっそりと訪ね、プチジャン神父に「じつはわしらキリストば信仰しとります」て告白したとが 明治元年(1868)6月7日のこと。

 パードレいうとは、ポルトガル語で神父のこと。これから日本語の
伴天連(ばてれん)ていう言葉がでけた。宣教師のうち司祭職のものばこう呼んだ。駅長の親戚じゃナカ。

 この出来事は、日本にキリシタンがおった奇跡
「信徒発見」として海外で大きなニュースになった。こればきっかけにして、これまで各地に潜伏しとったキリシタンたちが信徒であることを打ち明けるようになった。

上の上、教会は崖の急な斜面に立っとるケン、崖の途中に洞窟があって、その中の美人マリアさんかおんなった。
上、上部が8角形の鐘塔。まっ白の壁とステンドグラスの窓が日射しに輝いた。
右、崖の上まで上がったら、教会の屋根越しに2005年12月開通の女神大橋(ヴィーナスウイング)
が見えた。

 キリシタン禁制の高札が撤廃されて、キリスト教の信仰が黙認されたとは明治6年(1873)。
 ブレル神父いうとが神ノ島に赴任して明治9年(1876)に仮の教会ば建立しなった。

 5年後には2代目ラゲ神父によって木造の教会がでけ、明治30年(1897)に6代目として着任したデュラン神父が自らの私財ば投げ出し、設計も自分がして、急な斜面ば切り開き煉瓦造りの教会堂に建て替えた。それが現在の神ノ島教会の原型タイ。

 正面にはこの教会堂ば特徴づける大きな鐘塔がついとる。建築に関わった大工などについては、いまとなってはよう分からんげなバッテン、旧大浦天主堂の建設に関わった大工川原粂吉の息子でのちに黒崎教会堂ば作った外海(そとめ)の大工・川原忠蔵(1861〜1939)が請け負うたていう説もある。

 当時の信者数は53戸で各戸はそれぞれ100円ほどの負担ばしたていう。

 大浦天主堂に次いで二番目に古か教会で、美しかステンドグラスの丸窓から、西兄弟ふたりの功績ばたたえて分骨した納骨室と、政吉夫婦の墓石に記念碑が見え、その先には高鉾島かあった。

上・教会のシンボル8角形白亜の鐘塔
下・聖ドメニコ・サビオの像。

 教会へは港のある集落から階段ば上らな行けん。しかもこの階段はステップが高うて88段もある。手すりは付いとるけど、意地張って手すりば使わずにトントントンて上がりよったら、さすが山で鍛えたはずの駅長の息も、最近肺活量が落ちとって、あと3段ていうところで切れた。
 手すりにしがみついて、毎週お参りしよんなる年寄りの信者さんたちの大変さば実感させられた。

 やっとこっと階段ば上がった入り口に可愛か坊や( ? )の石像があって「聖ドメニコ・サビオの像」てプレートがついとった。ドメニコ・サビオちゃ誰かいな ? 駅長の詮索癖が頭ばもたげだす。

 7歳の時洗礼ば受け、聖人になりたかいうて、パンと水だけしか喰わん、寝るとも冬に毛布1枚なんていう苦行ばっかり繰り返しとった小さか子が、12歳の時にドン・ボスコ神父から「そげな無茶なことせんでも、普通に自分が出来ることばしつかりすればヨカ」て教えられ、病人の世話やら町の掃除やら、ケンカの仲裁やら、小さかこともいい加減にせんで世の中のために尽くし続けたていう。青少年の模範として「小さな巨人」て云われたとゲナ。
 病気のために14歳で亡くなった後、教会から聖人として認められ、それ以来信仰の対象になっとるていう。
 今じゃ考えられん真面目すぎる子ども。


 岬のマリア像

 教会の前の岬には聖母マリア像が、長崎港ば出入りする船の安全ば祈願して建てられとる。岬のマリア像て呼ぶ。

 純白のマリア像のある岬は、昔から恵比寿神社があった場所やった。そやケン、今でもえびすさんの祠が残っとる。
 このマリア像は昭和24年(1949)、日本にキリスト教ば伝えた聖フランシスコ・ザビエル渡来400周年ば記念し、世界平和と航海安全ば祈って建てられたていう。

 像の高さは4m60cm。見上げたら首の痛うなるほど大きか。そして全然汚れとらん。朝のうちに信者の人達が綺麗にしたとやろうか。毎年5月の第1日曜日には聖母祭がおこなわれとるていう。

 その先にあるとが「ドンク岩」ドンクいうとは方言でカエルのこと。どこから眺めても、突き出た岩のシルエットがカエルに見える。訪ねた時間帯がちょうど干潮の時刻やったケン、近づいてドンク岩ば見ることができた。永年にわたって海水に浸蝕された砂岩がガマの形になりきっとった。

 神ノ島では帳方で兄の西忠吉と水方で弟の政吉の兄弟が、信仰の復活ば願いながら命がけで舟ば漕ぎ、対岸の大浦天主堂の門ばたたいて信徒であることば告白した。

 そして、プチジャン神父ば連れて隠れキリシタンの住む神ノ島ば案内し、布教活動ばいつしょになって手伝うた。

 バッテン、西兄弟の献身的で勇気ある行動は役人に見つかり、とうとう明治4年(1871)、10人の仲間とともら検挙されてしもうた。

 ここでちょっと「隠れキリシタン」の組織ば紹介しとこう。

 
組織は3役(惣頭(帳方)、触頭(水方)、聞役)で構成されとつた。村のリーダーば帳方(ちょうかた)ていうた。

 日繰り(バスチャン暦・キリスト教の行事カレンダー)やら宗教書ば持っとって、祈りや教義などば教え、一年の祝日や教会行事の日ば触頭(ふれがしら)に伝えた。

 触頭(水方)は各郷に1人おって、帳方から伝えられた祝日や祈りの日ば聞役に伝える。また洗礼ば授けるとは触頭(水方)の役目やつた。

 聞役は各字(あざ)に1人おって一戸一戸の信者ば掌握し、水方から伝えられたことば各信者に知らせるとが役目やった。

 当たり前のはなしバッテン、教会の中は撮影禁止。
 しかし、誰も見とるモンはおらんし、曇り空やったとがたまたま日が差してきて、ステンドグラスが光り出したもんやケン、ついつい誘惑に負けてコソーッと(でもないか、かなり大胆に)動き回って隠し撮り。

 イエスさんば撮すとき「すんまっせんねぇ」ていうたら「ヨカヨカ、許す許す」て云いなったような気がした。

 きれいな曲線で4分割されたアーチ形のリブ・ヴォールト天井(これば別名こうもり天井ていう)は教会の内陣ば高く広く感じさせる。

 聖歌隊が歌う二階にまで勝手に上がってこっそり全景も撮ってきた。

 しかも、そればインターネットで発信しょうていうとやケン、駅長のあつかましさもたいがいなもん。

 バッテン、駅長の信念としては、京都の「寺で金取るなんてなんごとか。美術展でも撮影禁止ちゃなんごとか。なんでももっとオープンにしない」いうとがあるケン、ヤマしいなんて全然思うとんなれん。。

右・前日は雨が降ったはずなのに、マリアさんは全然汚れとらんで真っ白。新しか花も供えられとって、朝早うから信者さんの奉仕作業があっとることは間違いなし。

下・ドンク岩の向こうは造船所のある香焼島と伊王島。神ノ島との間が長崎港へ入っていく唯一の重要な海路になっとる。
 この海路ば守っとったとが、神ノ島の西端にある「四郎ケ島」やった。(別項で紹介)

左・マリアさんの向こうには女神大橋。橋ばくぐれば長崎港。
下・マリアさんに「さよなら」云うて、振り返ったら教会の白か十字架が映えとった。

 日本に来た主な宣教師たち

ガスパル・ヴィレラ(1556年来日・ポルトガル人)
    主に畿内で伝道。堺の状況ば報告した。

ルイス・フロイス(1563年来日・ポルトガル人)
    京都で信長と謁見した。

オルガンティーノ(1570年来日・イタリア人)
   京都に南蛮寺・安土にセミナリオば建設。

ヴァリニャーニ(1579年来日・イタリア人)
   天正遣欧使節ば連れて長崎ば出航。ローマ
   法皇に紹介した。

 主なキリシタン大名

大友宗麟(おおともそうりん) 
    豊後の領主(洗礼名:フランシスコ)
大村純忠(おおむらすみただ) 
    肥前大村の領主(洗礼名:バルトロメオ)
有馬晴信(ありまはるのぶ)  
    肥前有馬の領主(ジョンプロタシオ)
黒田孝高(くろだよしたか)  
    秀吉の軍師(洗礼名:シメオン)
高山右近(たかやまうこん)  
    大阪高槻の城主(洗礼名:ジュスト)

 場所・長崎市神ノ島町2丁目148。初めに書いたごと出島道路ば出たら左折。約3kmの女神大橋ば渡る。「木鉢」ていう料金所のすぐ先で左へ降りたらUターンば2回繰り返して川沿いに500m。海に突き当たって直角に右折のあと、港に沿うて約1km走ると右手に見えてくる。車は教会の下、港の広場に置ける。    取材日 2012.02.04

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