この建物、大正元年(1912)の3月に唐津銀行の本店として完成したと。
唐津市の出身で、東京駅やら日本銀行ば手がけた、近代建築の第一人者ていわれる辰野金吾の設計ていわれとったとバッテン、実は、辰野に師事しとった田中実が設計して建てたていうとがほんなこと。
もっと詳しゅういうなら、辰野が唐津の藩校時代に、同級生で仲良しやった大島小太郎から設計ば頼まれたっタイ。大島はそんとき唐津銀行頭取やった。故郷の級友がクサ、頭取になって一世一代の本丸ば作るていうとい、加勢せんわけにはいかんとバッテン、なんせ、その頃の辰野は超売れっ子で、この年には13、翌年には21もの建築に関わる忙しさやった。
大島に事情ば説明して「代わりにクサ、大学(現在の東大工学部建築学科)で、オレが教えた生徒の中に田中実ていう優秀かとがおるケン、そいつにさせちゃらんね」て相談したと。
辰野が博多弁で云うはずはなかバッテン、まあ、よかタイ。ふたりのこっちゃケン、唐津弁やったろう。
「田中に設計は任せ、自分が監修する」ていうことにして、この建物がでけたちゅう訳タイ。
煉瓦造り(一部木造)の地下1階、地上2階建て。延べ床面積は907平方メートル。10年8月に着工して、1年7か月かけ出来上がった。
受付カウンター前に立つ柱の上部は、ギリシャ・ローマ時代の建築様式、コリント式ていう華やかな装飾が施されとる。
石炭ば燃料とした暖炉がつけられるなど、田中(当時27才)の新しかセンスが溢れとる。
田中実は、このあと、建物ば作った清水組(現清水建設)にスカウトされて技師長になった。そういえば、博多の西中洲に建っとった旧大同生命ビルも、田中の設計やったゲナ。
明るか褐色タイルの大同生命ビルは、博多の名物洋館やった。先年の建て替えでクサ、あわや取り壊されようてしたとバッテン「勿体なか、ちょっと待ちんしゃい」いうて、今問題になっとる社保庁が、グリンピア八女に移築した。
話しは本題と関係なかバッテン、いま考えてみれば、厚生年金でいい加減なことばしょったとのひとつが、全国のグリーンピアやったとやケン、この移築にはオレたちの積み立てたカネが使われとったっタイねぇ。
グリーンピア八女はお役所商法で、案の定行き詰まり、たしか18,000円で八女市に払い下げられた。大同生命ビルは、今もグリーンピア八女に残っとるケン、官僚の馬鹿さ加減の記念碑として見とこうタイ。
話は元に戻って、この建物、直接やなかバッテン、辰野が関わったということでか、二階の一室は辰野金吾の展示場になっとった。
辰野金吾いうたら、日銀本店やら東京駅ば設計しなった明治建築界最大のボスてクサ、大御所やったことが、ここの展示ばみればよう分かる。
もっとも駅長は、写真撮すとに集中しとってクサ、シンからは見とらんと。そやけんか、はっと振り向いたら金吾のレリーフが、腹かいたごとして睨みつけとった。
今年で95才になる建物やが、平成9年(1997)3月までは、佐賀銀行の唐津支店として利用されとったとゲナ。
現役引退した同年4月、唐津市に寄贈された。唐津市は「市の重要文化財」として、これから保存していくゲナ。
金のなかケンか、あんまり保守整備はされとらんごたる。それがまたでけた頃のままば保っとってよか、て思わなしようのなかやろう。
上の写真は、一階の営業カウンターと飾り付きの柱。下の写真は、二階で怒っとる辰野金吾
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