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大野城とのコンビで太宰府の防衛線やった      「佐賀県」の目次へ
基山の山頂は広々とした原っぱでとても気持ちの良か。

 大宰府政庁跡から真南方向へ直線約5km、筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町との境に、標高404mの基山がある。

 町の名は基山町バッテン、山の名は「きざん」。もっとも駅長たち博多の悪ガキは、子供の頃から「きやま」ていいよった。

 草スキーで有名なこの基山ば中心にして、尾根伝いにあるとが、総延長約4.3kmもの古代の山城跡、基肄城跡(きいじょうし・きいのき)タイ。

右・山頂の天智天皇欽仰之碑

 663年に朝鮮半島の新羅が猛威ば振るうたもんやケン、劣勢に追い詰められた百済が日本に救援ば頼んできとるとタイ。仲良うしとった百済ばなんとか助けちゃろう思うて、ばぁちゃんの斉明天皇が、朝倉の橘広庭宮(あさくらの たちばなの ひろにはのみや・いまの恵蘇宮あたり)まで下って来なったとバッテン、年寄りの長旅が祟って死んでしまいなった。

 ここで駅長の話は突然に脱線する。なんで朝倉ていうか。この辺は山の陰で、なかなか夜が明けず、朝が暗かけん「アサクラ」タイ。死になった理由には、もうひとつ。行宮ば造るとい山の木ば伐んなったケン、麻底良山(までらさん)の鬼が腹かいたていう話もある。

 皇太子やった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・のちの天智天皇)は、かあちゃんの葬儀もそこそこに、援軍ば送んなったとバッテン、その日本軍は白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅連合軍からコテンパンにやられてしもうた。

 その報せば聞いた大和朝廷は、こんどは新羅軍が九州に攻めてくるバイて慌て、大宰府政庁ば守るため、664年に水城やら対馬の朝鮮式山城「金田城(かねたのき)」、665年には「基肄城」と「大野城(おおののき)」やらば築いて防備ば固めたいう訳タイ。

 造ったとは朝鮮から亡命してきた百済兵の指導やったケン、全部が朝鮮式山城ていう訳。ところが・・・・

 そうまでしたとバッテン、結局、新羅にもお国の事情がいろいろとあってクサ、日本に攻め込んでくる事はなかったケン、これらの城は約200年後にはぜーんぶ廃城となってしもうた。

 峰の頂ば結び、南側に開く谷ば取り込む形で、土塁や石塁が築かれ、要所には城門跡や水門跡があってクサ、40棟あまりの礎石建物が見つかっとるとよ。

 なんで、こげなもんが、こげな山ん中にあるとかていえば、話は1350年もむかしにワープする。


左・基山に登るとは、左下の南門跡から西へ大きゅう回る史跡巡りコースと、真ん中ば直登するコースがある。直登ルートやったら30分で山頂に着くやろう。

城門跡と南水門跡
 城内には、北側に2箇所と南東側に1箇所の城門跡が確認されとって、南側には大きな水門がある。南水門のすぐそばには道路があって、かつてはここに城門があったとやろうて云われとるけど、確とした証拠はなか。いまはここが基山の南登山口になっとる。

 南水門は、基山の南側の谷ば塞ぐごとして構築され、残っとる石塁の幅は約26m、高さは約8.5mと、とても大きかもん。その石塁のやや右よりの下には、谷川の水ば通す水門が造られとって、いまでも川の水の一部は水門ば流れとる。

 水門の長さは約10mで、横穴式石室ば思わせる。ほかの古代山城と比べても、大きゅうて保存状況も良か水門ていわれとるとゲナ。地元に云わせるとここの水は、基山の名水げなケン、いつも水汲みさんの多かていう。

米倉礎石群
 
東峰にある礎石群で、ここから炭化した米が見つかったケン、ここに米倉があったっちゃろうて云われとる。

 礎石の数と広がりからすれば、「とっけむのう(とんでもなく)」大きな建物やったろう。




つつみ跡
 東峰の最高部の土塁上に「つつみ跡」て呼ばれる窪地がある。直径約16m、深さ約2mほどの凹地になっとつた。

 おそらく雨水ば溜めとったっちゃろう。山城である以上、籠城に備え、水の確保は大切なことやったろうケン、大野城跡にも「鏡ヶ池」ていう擂り鉢状の溜め池があったけど、ここもそれといっしょタイ。

土塁
 歴史の古か分、長い間の水の侵食が激しうて、土塁の形状ははっきりせんバッテン、向かって左は急斜面で、右手は一段高く道路状の部分が続いとる。

東北門
 城門跡の中で、ただひとつ城門の礎石が確認されとるとが東北門。扁平で長方形の石に円形の刳り込み孔がのこっとる。

 門の幅約1.9mのやや小型の城門やったことが分かる。門の両側には、土塁が続き、門の付近は石塁で固められとった。

 この門から城外に出ると、道が2つに分かれとって、左に行くと大宰府方面へ、右に行くと原田へ出る。


上・2枚は東峰の土塁。右は東北門ば内側から。下は外側から見た。両側には石塁が。

大礎石群
 
礎石群の標柱があるところから、上に向かって5段になって礎石群が残っとる。礎石は4列に6個の配列で、奥行きは全て3間、間口は10間、ほかに何種類かあった。

 基肄城跡には、全部で40棟ばかりの建物跡が見つかっとるバッテン、ここの建物は総柱式ていう建物で、現在基肄城で見つかっとる礎石建物の中では、群ば抜いて大きかケン、おそらく、基肄城の中心的な建物やったことには間違いなか。

 多分、兵舎やら備蓄用の倉庫に使 われとったとやろう。

いものがんぎ(坊中山城跡)
 西側の土塁、基山山頂近くには、幅の狭か馬の背のごたあ稜線に、直角の窪みが4条掘られとって、その間に3つの蒲鉾状の隆起が並んどる。この凹凸が「いものがんぎ」て呼ばれとると。

 これは、古代山城のもんじゃのうて、戦国時代のもんで堀切ていうとゲナ。

 堀切ていうとは、山の尾根の横方向に大きな溝ば掘っといて、尾根から攻めてきた敵が簡単に突破でけんごと邪魔するとタイ。
 ようするに「とうせんばっちょ」

 戦国時代末期の基山は、高度な防御施設ば備えた山城になっとったらしゅうて。城主ははっきりとせんバッテン、おそらく鳥栖の勝尾城におった筑紫氏の持ち城やったろうていわれとる。

 天空に聳えとる「天智天皇欽仰之碑」は、昭和7年、基山小学校の生徒たちが奉仕してここに建立したもんゲナ。
 石碑には
「天智天皇となる中大兄皇子は、大宰府政庁を守るため、664年に水城を、665年には朝鮮式山城「基肄城」と「大野城」の2城を築き防備を固めた」て書いてあるケン、天皇はここに立って「新羅が攻めて来んやろうか」て心配しながら平野ば眺めよんなったとやろう。

上・これが「いものがんぎ」
下・山頂に立っとる基肄城跡の石碑と説明板。

 山頂には、むかし五十猛命(いそたける)が、仕事の疲れで座ったまま7日7晩眠っとんなったていうご神体の岩があって、お参りする人がひっきりなし。

 またこの石に腰ばかけて、小川で洗濯しよったきれいな娘ば見初め、結婚しなったとが、近くの
「契山(ちぎり)」やったていう上手くでけた話もある。

 駅長が云うとやケン、あんまり当てにはならんバッテン、この娘は、天照大神の妹の
丹生都比売命(にぶつひめ)やったかもしれん。

 五十猛命いうたら、素戔嗚尊(スサノオ)の子で、荒穂神社の伝承では、基山に陣取り、植林の指導ばしなった神さんでクサ、最初に木ば植えなったとがこの土地やったケン、基山ていうとタイ。

 近代の基山は、手頃なレクレーションの山として親しまれとってクサ、学校の遠足なんかによう利用されとる。とくに西斜面の草スキーは、戦後の子供達なら、ほとんど滑ったことがあるやろう。

 鳥栖筑紫野道路(かささぎ道路)からやったら、すぐそこに山頂の展望所が見えとるケン、そこまで上がってみたら、眼下の「けやき台」上の写真が、ギッチリすし詰め。家ばっかしでたまがった。

 場所・佐賀県三養基郡基山町大字小倉字(坊住、北帝、車路、大久保) 鳥栖筑紫野道路(かささぎ)ば、九州自動車道筑紫野ICの入口「武蔵」の交差点から約7kmほど南下。城戸出口で下りすぐに右折。丸林集落の狭か軒下道ば抜けて左折すると300mで南水門跡に突き当たる。道の端に2・3台の駐車スペースがある。ここが南登山口。
 足の弱か人は、城戸出口のもうひとつ先「宮浦」で下りてすぐ右折。道なりに途中の瀧光徳寺前ば通り抜け、約3kmで草スキー場下の駐車場に着く。トイレ完備。草スキー場の坂ば5分登れば山頂タイ。 取材日 2009.01.20

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