斉明天皇は女帝で、もうかなりのばぁちゃんやったけど、救援のため大軍ば連れて九州まで下って来なった。しかし、高齢の長旅がたたってクサ、朝倉の行宮で死んでしまいなる。
朝倉の行宮は、大分自動車道の朝倉ICから国道386号線ば東へ約4km、いま恵蘇八幡宮のとこにあった。
あとば継いだ子の天智天皇が、2年後に百済救援のため大軍ば派遣したとやが、白村江(はくすきのえ)の戦いで、軍船ば400隻も燃やされるほど、こてんぱんにやられてしもうた。
散々に負けたもんやケン、天智天皇と大和朝廷は、唐・新羅連合軍が日本に攻めてきやせんやろうかて心配した。「こらあかなりやばかバイ」いうことで防衛のため造ったとが、太宰府の大野城(おおのじょう)、基山の基肄城(きいじょう)、対馬の金田城(かねたのき)ていう訳よ。百済から亡命してきた技術者ば使うて造らせたケン、全部が朝鮮式山城(さんじょう)になっとるとタイ。
大野城の「百間石垣」長さ180m 山全体が堅固に築かれた基肄城 対馬の金田城は天然の要塞
「続日本紀(しょくにほんぎ)」文武天皇2年(698)5月の条に「大宰府をして大野・基肄(きい)・鞠智の三城を繕治せしむ」て書かれとるほか、国が編纂した「六国史」にもちゃんと記録が残っとるぐらいやケン、日本最初の大国家プロジェクトやったっちゃろう。
その6城造った内のひとつが鞠智城やけど、ほかの5城は海に備えて造ったとい、ここだけは山の中になし造ったかていう疑問が残る。
それについて、この鞠智城は前線の5城に対する兵站基地やったていう説が有力になっとる。城の面積は内城55ヘクタール、外縁地区65ヘクタールもあって6城の中では最大規模。たとえたらヤフードーム8個分の広さていうごと、とてつもなく広かもんやったらしか。
鞠智城のシンボル「温故創生之碑」 台座のレリーフの内「大化の改新」 築城ば指導したていう百済の貴族
昭和34年(1959)に「鞠智城跡」として県指定遺跡に。昭和42年(1967)から28回の発掘調査が行われ、その結果、当時としては日本になかった八角形の建物(韓国の二聖山城跡のとに似とるゲナ)ばはじめ、72棟の基礎が確認されとるていう。
平成6年(1994)からは、歴史公園鞠智城として整備が開始され、校倉造りの米倉やら兵舎が平成9年(1997)に、八角形の鼓楼が平成11年(1999)に復元されて公開されるごとなった。
平成16年(2004)には国の史跡に指定され、いま吉野ケ里のごと、国営公園化めざして整備がさらに進んどる。
北の灰塚展望所からは晴れとったら雲仙まで見える 発掘が続けられとる遺構から青銅製の菩薩立像が出土した
2007年には城内の池から、青銅製の菩薩像が見つかって、鞠智城が百済亡命貴族の指導で築城されたことば裏付けた。この菩薩像は、長さ12.7cmのちょうど掌に乗るぐらいのサイズで、携帯用の仏像らしか。この時代の百済仏が出土したとは、全国で初めてのことやったゲナ。
また、八角形の建物もそうやが、渡来系の名前が書かれた木簡なども発見されとって、ここに渡来人の秦人(はたひと)一族が住んどったことが明らかになっとる。
兵舎 小板3枚重ねの板葺き屋根、土壁、土間造り。間口8.0m、奥行き26.6m。窓は突き上げ式で棒で支えとった。防人(さきもり)達が寝起きしとったていう。
米倉 高床式で間口7.2m、奥行き9.6m、校倉造り(あぜくら)、屋根は瓦葺きやったらしか。
風通しが良く、兵糧米にとっては最高の環境やったて思われる。計算上では1棟で1200俵が保存できたゲナ。複数棟あった。
鞠智城の呼び名については、むかしは「鞠智(くくち)」ていいよったとバッテン、平安時代に「菊池(きくち)」になって、いまでは「鞠智城」て書いて「きくちじょう」とも「くくちじょう」とも呼ばれとる。
鞠智城ば訪ねて来る人は、毎年10万人ば超えとって、これまでに総数100万人近くになるらしか。しかし、こんだけ金と時間ばかけて整備して、このくらいの動員数では勿体なか。古か、広か、ばっかりでは魅力の足らん。熊本県なあまあだ頑張らんば。
見回してみると、どこか吉野ヶ里遺跡ば想像する。吉野ヶ里は弥生時代やケン、西暦200年頃。鞠智城は西暦660年頃で、古さでは勝たんバッテン、いにしえの壮大な九州遺産には間違いなか。
鼓楼 復元された八角形の建物。高さ15.8mの巾8.2m。3層構造で最上階に連絡用の太鼓ば置いとったらしか。
1層目の柱数は48本、2層、3層目は16本の柱で支えられとる。こげな八角形建物は日本の古代山城では初めての発見。太鼓じゃたいした距離には伝達でけんケン、のろし台があるはずバッテン、まあだ見つかっとらん。
防人について
「防人」とは元来「崎守」のこと。大陸に面しとる北部九州の「崎々」に配属されて国ば守っとった。この防人が制度化されたとは、白村江の敗戦の後のことやった。大和朝廷がどれだけ神経ば尖らしとったかが分かる。
当初は西国の兵士があたる筈やったとバッテン、九州の兵は百済まで行って戦うてきたもんやケン「疲れきっとうケン、できまっせん」いうことで、「そんならしようのなかタイ」て全国各地から徴兵する事になったとゲナ。
徴兵された兵士は、各地に配属されて軍務のほか、自給自足のため、田畑の開墾作業もしよったらしか。兵役は3年間で老父母の面倒ば見とるるもんは免除されたらしか。