このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

古さば守るとは、やおいきまっせんバイ       「熊本県」の目次へ
駅長推薦の文化財

 日奈久温泉・金波楼の創業は明治43年。

 旅館の建物は2008年の今年で築98年。

 それがいまでも現役で営業しよんなる。もちろん日奈久では一番古か。

 なんちゅうても、今ではなかなか見られん、木造の三階建ていうとが珍しか。

 正面玄関と塀は昭和になってから作られた。その山門のごたあ玄関は、いつも開けっ放しで、戸ば閉めたことはなかとゲナ。

 「いつてもどうぞ」ていう旅館の姿勢が出とる。
 

 玄関ば入っていくと、磨き上げられた巾5mの上がり框に迎えられる。床材は桜で薄墨色のにぶか光りが、さっそく歴史ば感じさせる。

 床面ば傷つけんごと「キャスター付きの旅行カバンやらは、毛布ば敷いて運ぶぐらい気ば使うとります」て、3代目の当主松本寛三さんが云わっしゃった。

 廊下にしても床は樹脂でコーティングしたごと光っとって、これば保つためにはモップかけもワックス磨きも大変な作業やろう。

 たつぷりした中庭も含めてとにかく広か。敷地が600坪に部屋数が15やケン、いかにゆったりしとるかが分かる。

 明治以来、有名人もここで宴会ばしたやろう2階の大広間は、床の間にしても欄間にしても、そのひとつひとつが凝っとること。

 客室のガラス障子も、部屋毎に違うデザインの 欄間がついとうと。

 トイレが新式になっとったり、細かいとこでは変わっとっても、創業以来、大がかりな改装は1回もしとらんゲナ。

 それにしても、これだけのモンば維持しながら、お客さんば毎日迎えていこうちゃ、おおごとやろう。
 番頭さんが、こそーっと云いなつた「社長は大変のごたるですよ」。そうやろう、そうやろう。

写真・上左、ピカピカの上がり框。貫禄のあるアールヌーボー調の階段は、映画「陽暉楼」のシーンそのもの。

上右・玄関わきの小上がり。古い小物入れ、昔の電話。大時計には「贈松本君」とあって、博多掛町の高橋時計店から先代に贈られたものやった。掛町いうたらクサ、いまでいえばリバーサイドの北側、ホテルオークラのあたり。昔の博多のメインストリートやった。

 その下の3枚は、大広間の床の間と巾1間の障子。ひとつひとつが違う凝った欄間のデザイン。木の枝は本物が使われとった。床の間は金波楼やケン、金波の床になっとって、とにかくお洒落タイ。

 裏の駐車場から見た金波楼の中庭と、左の二階が大広間。

 旅館に不似合いな赤煉瓦の煙突が見えたケン、聞いてみたら、旅館ば始める前は醤油屋さんやったゲナ。

 とすれば、この煙突100年以上も経っとる(立っとる)ていう訳。

 客室のガラス障子の細工に明治の職人の細かい技が光っとる。
 この細工が部屋毎に違うちゃけん凄か。

 こげなモンば見るだけで充分一泊する価値がある。

 金波楼のある日奈久温泉については、古うからの言い伝えが残っとる。
 延元3年(1339)、足利尊氏が、肥後の菊池氏討伐に差し向けた甲斐重村の配下に浜田右近という者がおった。

 右近は、激戦の中で足に刀傷ば負うたケン、追っ手ば逃れて八代の小島に隠れとった。そしてクサ、この小島に漁に来とった日奈久の漁師たちと親しゅうなり、漁師の子供たちの読み書きば教えたりして、好かれるごとなった。
 やがて日奈久に移り住んだ右近は、里の娘と結婚して男の子ば授かり、六郎左衛門ていう名ば付けた。

 成人した六郎左衛門、父の刀傷の治療ば願うて、安芸の宮島の厳島明神に7日間の断食祈願ばした。満願の夜に夢の中で神のお告げがあり、そのお告げの地形ばたどったところ、お告げ通り干潟の中に奇石があって、六郎左衛門がその奇石ば掘り起こしたところ、そっから温泉がこんこんと湧き出した。

 この温泉に父・右近ば入浴させたところが、刀傷もすっかり治ってしもうたゲナ。よくあるパターンの話しで、六郎左衛門の孝心に神が感心して、温泉となって表れたていう訳タイ。
 そのことから温泉は「孝感泉」て呼ばれるごとなり、話しがいっきに伝わって、人気の温泉場になった。これが今の日奈久温泉ていうことになっとりますと。

山頭火が泊まった旅籠の「おりや」が、そっくりそのまま残っとる。日奈久では毎年9月に山頭火のイベントがあって、町中が山頭火の「句」で埋め尽くされ観光客で賑あう。

金波楼のオフィシャル ホーム ページは  http://www.kinparo.jp/
金波楼ていう旅館やらホテルはクサ、全国に多かケン、間違えんとバイ。

山頭火も好きやった日奈久温泉
種田山頭火の「行乞記」によれば

昭和五年 九月十日 晴。二百廿日。
行程三里。
日奈久温泉 織屋(おりや)に泊まる。(四〇銭、上)
 午前中八代行乞(ぎょうこつ)、午後は重い足をひきづって日奈久へ、いつぞや宇土で同宿したお遍路さん夫婦とまたいっしょになった。
 方々の友へ久振にほんたうに久振に音信する。その中に私は所詮、乞食坊主以外の何物でもないことを再発見して、また旅へでました。歩けるだけ歩きます。行けるところまで行きます。温泉はよい。ほんたうによい。ここは山もよく海もよい。出来ることなら滞在したいのだが、いや一生動きたくないのだが(それほど私は疲れてゐるのだ)

九月十一日 晴、滞在。
 午前中行乞、午後は休養、此宿は夫婦揃って好人物で、一泊四十銭では勿体ないほどである。

九月十二日 晴、休養。
 入浴、雑談、横臥、漫読、夜は同宿の若い人と共に活動(映画)見物、あんまりいろの事が考へさせられるから。
(『あの山越えて』山頭火行乞記 大山澄太編)

 場所・熊本県八代市日奈久。九州自動車道の八代ICから南九州自動車道ば走って日奈久ICで下りる。取り付け道路の信号ば直進し、次の一つ目の信号(からくり灯篭がある)で右折、最初の路地ば右に入る。     取材日 2007.9.24

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