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聖武天皇の命令ででけた全国国分寺のひとつ        「福岡県」の目次へ
  県指定有形文化財

「豊前国分寺の三重塔」

 豊前国分寺跡(ぶぜんこくぶんじあと)は、福岡県京都郡みやこ町にある寺院跡。

 英彦山塊に発する祓川(はらいがわ)の水は周防灘に注ぎ、その中流域の左岸一帯では豊津原(とよつはら)て呼ばれる狭か洪積台地がうんと発達しとる。

 洪積台地(こうせきだいち)とは、洪積世(200万〜1万年前)において形成された平坦面が、その後隆起したことで形成された扇状地や三角州、台地の総称ばいう。

 一般に小規模で標高も低か。 豊前国分寺跡はこの台地の東北部、国分原丘陵の中央部にある。

 奈良時代に聖武天皇の詔(みことのり・命令)により日本各地に建立された国分寺のうち、豊前国分寺の寺院の跡。

 
「国分寺建立の詔」は、疫病や旱魃、洪水、反乱などが頻発したもんやケン、神頼みじゃなかバッテン、ほとけさん頼りで天災や政情不安ば取り除こうて、聖武天皇が発した命令。

 奈良の東大寺と法華寺ばそれぞれ総国分寺、総国分尼寺として、全国各地に「国分寺(国分僧寺・こくぶんそうじ)」と「国分尼寺(こくぶんにじ)」が建立された。

 国分寺建立の詔には、「必ず好き処を択ひて、実に久しく長かるべし」つまり「国分寺は、必ず良か場所ば選んで建て、永続させよ」てある。

 豊前国分寺の場合は、政治の中心である国府に、近すぎもせず遠すぎもしない低丘陵が、国分寺建立の「好き処」として選ばれたと思われる。

 この豊前国分寺もその一つで、756年(天平勝宝8年)頃までに完成したものと考えられとる。当時、国分寺は国府と共にその地域で最大の建築物であり、豊前国分寺も、地域の中心、九州東北部の中心ば担うとった。

 天正年間に大友宗麟の兵火で焼失したとバッテン、江戸時代の元禄年間にほぼ復興。

 発掘調査はこれまでに2回行われた。奈良時代の講堂跡のほか、また鎌倉時代から室町時代にかけて敷地ば取り囲んどった大溝、僧房や回廊の跡と思われる建物跡が見つかったもんやケン、奈良時代の豊前国分寺は東西160m、南北160〜220m前後の大きなもんやったて考えられとる。

 ←東九州自動車道の「今川」ICで下りて地図通りにたどっていけば間違いない。
 ←建立当時の境内配置図。
↑ 「豊前国分寺」の入り口。

 境内で一際目立つ三重塔は、明治になってから住職宮本考梁師の発願で、明治21年(1888)に着工し8年掛かりで完成した。

 高さ23.5m。三重塔としては奈良の法起寺にある三重塔に次ぐ大きさで、九州に3つしかない三重塔の一つ。

 本瓦葺で相輪は竜車がなく、宝珠が大きい。屋根瓦は境内から出土した天平時代の大宰府系瓦ば使用しとる。塔は層塔と多宝塔の折衷様式ば持っとる。

 層塔とは、同じ階(屋根・笠)ば何重(層)にも重ね、屋根の上に相輪ば立てたもの。層の数は奇数が原則で、木造では三重塔・五重塔がほとんど。多宝塔いうとは、四角錐形の屋根ば持つ二層以上の塔のこと。

 豊前国分寺周辺は史跡公園になっとって、梅の木がたくさん植えてある公園やら休憩所、多くの石碑、復元された講堂基壇跡(上の写真)などがある。
 また、入口付近には国分寺案内所があり、国分寺や周辺の関連遺跡から出土した瓦などの遺物が展示してある。

 場所・福岡県京都郡みやこ町国分279番地。福岡ICから九州自動車道ば51km。北九州JCTで東九州自動車道へ右折19kmの今川スマートで下りる。ETC2,050円。下りたら200mで右折、今川沿いに1kmの「清地大橋」信号で県道58号線へ左折、川と一緒にヘイチクの線路ば跨ぐ。川渡ったら1kmで「みやこ町八景山」信号場右折。600mで「錦町」信号ば通り越し400mの標識なし信号で左折したら、400mで左にある。             取材日 2008.6.13

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