このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
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虹澗橋(こうかんきょう)なんて、どうしたよか響きの名前かいね。 | |
むかしこの場所は、三重から臼杵城下にいたる街道の最大の難所で「柳井瀬の渡り」は地獄の瀬ていわれとった。人馬はもとより物資の輸送にみんなが難渋ば極めとったらしか。なんせ三重は臼杵藩の穀倉地帯やったケン、毎年1万石もの年貢米がここば渡りよった。 以来約200年近く、橋は美しい姿ば保ちながら、平成15年(2003)まで自動車の通る道路橋として活躍しとったバッテン、昭和63年(1988) 上流に架けられた新虹澗橋に幹線の橋としての使命ばゆずったところが、ガックリきたとか橋の裏に亀裂が発見され、平成15年に車両の通行はストップ。今は脇橋として歩行者だけに使用されとる。 当時としては最大規模の石造りの橋やったいうこともあるバッテン、ほぼ完成しとった橋が崩壊してしもうたもんやケン、再工事になり予想外の出費が嵩んだ、てもいわれとる。 大分の石橋 石橋のルーツはメソポタミア(紀元前4000年頃の文明国家で今のイラクあたりにあった)バッテン、技術的に発展させたとはローマ帝国やったていわれとる。 眼鏡橋の技術はローマから全ヨーロッパへ、またシルクロードば通って中東や東アジアへ広まっていったと。日本で最初の石橋は、いまでもある長崎の眼鏡橋、寛永11年(1634)、中国の明から来た如定(にょじょう)ていう坊さんの指導で架けられとる。 大分には石橋が多か。全部で490基ぐらいはある。院内町やらは、もう石橋だらけタイ。江戸時代に造られた眼鏡橋は約50基。今でも30ぐらい残っとる。橋は大部分が、高欄や親柱のなか肥後式ていう素朴な造りが特徴。優秀な石工と労働ば提供する農民が揃わな石橋はでけんやつたケン、大分の眼鏡橋は、人々の血と汗の結晶やったに違いなか。 肥後種山村の石工集団が有名かごと、豊後の石工も肥後の「乱れ積み」に似たすぐれた技術ば持っとった。なんで似た技術かていえば、隣同士の藩で石工達は藩の違いやら関係なしに行き来してクサ、お互いの技ば磨いとったけんタイ。 虹澗橋の石工棟梁ばした伊沢織平が抱えとった石工集団もその技ば買われ、手永(てなが)の西谷橋 (文政7年・現佐賀関町)と金道橋 (文政3年・大分市坂ノ市)ば架けたりしとる。 臼杵は、大友宗麟から続く歴史の中で、城づくりやら港づくりなど、石工たちの土木技術が磨かれる機会が多かったケン、優秀な技の伝承があったに相違なか。 織平がどこでアーチの技法ば習得したかは分かっとらんバッテン・・・。 | |
場所・豊後大野市三重町菅生 国道57号線やったら、時間がかかるケン金はかかるバッテン、大分道ば使う。臼杵ICば下りて国道502号線へ左折。約10kmの「日当三差路」三重町方向へ左折。野津町内ばしばらく国道10号線。「野津町明治橋」信号で右折してまた国道502号線にもどる。さらに約6km、三重CC手前の新虹澗橋ば渡って右折200m。 | |
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