そのなかに真円(しんえん)ていう江西省饒州府浮梁県生まれの新米坊主がおった。元和6年(1620)商売で長崎へ来とって4年後長崎で出家して僧になっとった。長崎最初の中国僧やった。
同郷の華僑たちの寄進で、別宅に仏殿および媽祖堂(まそどう)ば建てた。これが興福寺の始まりやった。
10年後の寛永12年(1635)住持の座ば黙子如定(もくす にょじょう)に譲った。彼が死んだとは慶安元年(1648)2月。享年70才やった。
で第2代は「黙子如定」第3代は「逸然性融(いつねん しょうゆう)」第4代「澄一道亮(ちんい どうりょう)」第5代 「 悦峯道章(えっぽう どうしょう)」・・・て続く。10代目以降は日本人の住職になる。
第2代住職やった黙子如定(もくす にょじょう)は、市内から寺にお詣りしやすがごと、中島川に眼鏡橋ば架けたり、寛永9年(1632)には、本堂ば建てたり尽力しなった。
大雄宝殿は、ほとんどが中国職人の手によって作られた中国建築で、資材も中国から取り寄せたていう。
丸窓は氷が砕けたような模様の氷裂式組子(ひょうれつしきくみこ)で、中央がアーチ型になっている黄檗天井(おうばくてんじょう)など、珍しい内装や外装が施されとったゲナ。
大雄宝殿 最初の堂は大火で焼失し元禄2年(1689)に再建されたとバッテン、慶応元年(1865)今度は暴風で大破し明治16年(1883)に再建されたとが現在に残っとる。
興福寺(こうふくじ)は、長崎市寺町(てらまち)にある日本最古の黄檗宗の寺。山号は東明山。山門が朱塗りやケン、「あか寺」ても呼ばれる。またこの寺には、浙江省・江蘇省出身の信徒が多かケン、南京寺てもいわれた。
寛永元年(1624)に中国僧の「真円」により創建された。崇福寺・福済寺とともに長崎三福寺の一つに数えられる。
当時、長崎は各国の商人や物資が集まる国際都市になっとって、その中でも断トツに来航者が多かった国が中国で、長崎市民の6人に1人が中国人というほどやった。
日本に来る中国人の中にはキリスト教徒がおったもんやケン、長崎奉行は唐人の宗教についても厳重に調査しとった。そやケン、在留の唐人たちは自ら進んでキリスト教徒でなか証明ばするため、また海上の安全祈願と故人の冥福ば祈るため寺ば建てようていうことになった。
第3代の逸然禅師は絵や書に秀いでとって、門下生からも名手が輩出し、中国絵画が日本で発達する元ば作った。長崎漢画の祖ていわれとる。
また、逸然は当時中国でも高僧の評判が高かった隠元禅師(いんげん ぜんじ)ば招くことに成功し、日本全国から多くの僧がここへ隠元の教えば受けに来て、その数数千ともいわれる活況で、寺町は大賑わいやったていう。
この詳しか経緯は、崇福寺の住持に空席が生じたことから、先に来日しとった興福寺住持の逸然性融が、隠元ば日本に来チャンしゃいて呼んだ。
はじめ、隠元は弟子の也嬾性圭(やらん しょうけい)ば派遣したとバッテン、途中で船が難波して死んだもんやケン、やむなく自ら二十人ほどの弟子ば率いて、軍人で政治家の鄭成功(てい せいこう)が仕立てた船に乗り、承応3年(1654)7月5日夜に長崎へ来港した。
明暦元年(1655)、崇福寺に移る。隠元の渡日は、当初3年間の約束やったもんやケン、本国からの再三の帰国要請があって、しかたなしに帰国ば決意したとバッテン、同門の龍渓性潜(りゅうけいしょうせん)たちが引き止め工作に奔走したもんやケン、万治元年(1658)には、江戸幕府4代将軍・徳川家綱と会見した。
その結果、万治3年(1660)、幕府から山城国に寺地ば賜り、翌年、新寺ば建て、むかしば忘れんごとていう意味ば込めて、故郷の中国福清と同じ名の黄檗山萬福寺て名付けた。
これによって、隠元は日本禅界の一派の開祖となったとやが、当初から黄檗宗て名乗っとった訳じゃなか。
隠元が説いた「黄檗清規」は、乱れば生じとった当時の禅宗各派の宗統・規矩の更正に大きな影響ば与え、特に曹洞宗の宗門改革では重要な手本とされた。
隠元には、後水尾法皇ば始めとする皇族、幕府要人、各地の大名、多くの商人たちが競って帰依したていう。
萬福寺の住職の地位にあったのは3年間で、寛文4年(1664)9月に弟子の木庵に移譲し、松隠堂に退いた。
松隠堂に退隠後、82歳ば迎えた寛文13年(1673)正月、隠元は死ば予知して身辺の整理ば始めた。3月になり体調ますます悪化。
4月3日に遺偈ば書いて息ばひきとった。世寿82歳やった。遺偈(ゆいげ)とは禅僧が末期(まつご)に臨んで門弟や後世のためにのこす偈のこと。
前日には後水尾法皇から「大光普照国師」号が特別に贈られとった。
媽祖堂(まそどう)
寛政6年(1794) 唐の船たちが白砂糖1万斤(きん)の代銀12貫目ば寄進し、大改修ば加えて再建されたていわれとる。
中央に本尊・天后聖母船神(媽祖神)、脇には赤鬼青鬼て呼ばれる順風耳と千里眼が祀られとる。
媽祖ば守って立ついかめしか風貌の二鬼神は、伝説によると昔、悪さばかりして、人びとば困らせとった妖術使いだったとば、媽祖が改心させ、自分の守護役にした順風耳(じゅんぷうじ)。
彼は大きな耳が特徴で、あらゆる灰汁の兆候やら悪巧みば聞き分けて、いち早く媽祖に知らせる役目ば持っとる。
千里眼(せんりがん)は三つの目が特徴、媽祖の進む先やその回りば監視して、あらゆる災害から媽祖ば守るとが役目ていわれとる。
媽姐いうとは、海上の守護神で別名ば天后聖母ていう。媽姐ば祀ったお堂は長崎の唐寺だけに見られる。
この瑠璃燈は、大雄宝殿の中央高く懸けてある。上海から運んでこの堂内で組み立てられたもの。 中国の工匠の作で、人物などの彫刻は実に巧妙。
清朝末における中国の精巧な工芸品の代表で、 日本にあるこの種のものの中では最大のもん。
燈篭の四囲に従来の紙や絹ば使わず、ガラスば使うとることなど、 中国における洋風趣味と思えば興味が湧いてくる。
形状は高さ2.18メートル、径1.31メートル。
↑大雄宝殿の瑠璃燈は迫力。
←眼鏡橋の傍に立つ第2代住職・黙子如定(もくす にょじょう)の像。
↑興福寺山門
↓鐘鼓楼(長崎県有形文化財)は「寛文3年(1663)の市中大火のあと元禄4年(1692)に再建された。2階建て上階は梵鐘ば吊り、太鼓が置いてある。階下は禅堂とした。
隠元禅師いうたら「インゲン豆」タイ。
黄檗宗の教えのほかに様々なものば日本で広めた隠元さんやが、普茶料理などもそのひとつ。
インゲン豆は、精進料理の材料として普及していった。
隠元禅師から伝えられたものはほかに、もやし・スイカ・レンコン・孟宗竹(もうそうちく)、落花生・茄子やら、料理では胡麻和え・胡麻豆腐・けんちん汁などなど、みんな隠元さんが紹介しとんなる。
その他にも、書・絵画・象嵌(ぞうがん)・篆刻(てんこく)・印鑑・木魚・明朝体の文字などなど、数え上げればキリのなか。
← 耳傾けとる順風耳
↓ 目光らせる千里眼
庫裡の入口にさがる大きな魚鼓は、僧侶に食事ば告げるために叩く木彫りの魚板。
長年叩かれとるもんやケン、腹は凹んでしもうた。叩く音は「コーン、コーン」と遠くまで聞こえるゲナ。
元になった魚は揚子江におる幻の魚ていわれとる。
口にふくむ玉は欲望ば表し、これば叩いて吐き出させるていう意味あって、木魚の原型ていわれとる。
こげな魚板は禅寺によくあるバッテン、興福寺のものは日本一美しかと定評がある。
叩かれ続けた魚板