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信徒がひとつひとつ積み上げた赤煉瓦の聖堂      「長崎県」の目次へ

 外海(そとめ)が好きで、生涯日本人とキリスト教ばテーマとした小説家・遠藤周作の代表作「沈黙」に登場するとがこの「カトリック黒崎教会」

 外海のキリシタン文化ば象徴する聖堂ていわれとる。

 ロマネスク様式の堅強な赤レンガ造りの黒崎教会は、周作が「・・・あまりに碧い」て表現した角力灘(すもうなだ)の海ば望む高台に、いまもしっかりとして立っとった。

 黒崎村は作品のなかでは「トモギ村」として描かれとった。

 この外海地方にキリスト教が入ってきたとは、400以上も前の元亀2年(1571) 大村純忠が長崎ばポルトガル人に開放したときに始まる。外海にもカプラル神父がきて布教ばはじめ、このあたりに15もの教会がでけたていう。

 徳川三代将軍家光の時代(1624〜1651)、キリシタンに対する弾圧と迫害はきびしゅうなり、外人宣教師が国外に追放されたり、処刑されてしもうたもんやケン、キリシタンたちは取り締まりの目ばのがれるために、長崎県に多か離島やら、人里離れた山の中に潜伏してひそかに信仰ば守るごとなった。このような潜伏キリシタンのことば「かくれキリシタン」ていうた。ここ外海も「かくれキリシタン」の代表的な里やった。日本人の修道士バスチャンやら、次兵衞神父たちの指導で信仰ば守り続けたていう。

 250年間もの迫害ばたくみにのがれて信仰ば守りつづけた「かくれキリシタン」の存在は、世界の宗教史上でも例のないことやったゲナ。

上の2枚・強か海風に絶えるごと、鎧戸と二重になったステンドグラスの窓。柔らかい光にこころが落ち着く。


「かくれキリシタン」が潜伏することができた秘密は、かれらの宗教が、ただひとつつの神ば信じるカトリックとは似ても似つかぬ宗教に変質しとったケン、てもいわれとる。仏教や、神道、土俗信仰ばクサ、幕府の弾圧ばしのぐかくれミノにしたけんやった。

 信者のあいだでは「オランョ」という祈とう文が伝誦され、子供が生れたら洗礼と霊名が与えられたらしか。家の中には神棚や仏壇ば飾り、葬式は僧侶や、神官ば迎えておこない、僧侶や神官が帰った後で「御経消し、戻し」いうて、オラショ(祈り)ば唱えて入棺しよったとゲナ。

 オラショいうとは、ラテン語、ボルトかル語、九州弁などが混在したもんで、その内容や意味は信者でも理解されとらんやったらしか。

 部落ごとに「帳」て呼ばれる宗教組織があり、帳には、帳役、御水役、取次役の三役がおったていう。
 帳役は、祭礼ば司る帳の最高責任者で「日繰り」ていう暦(バスチャン暦)ば持っとって、一年の祝日や、行事の日ば決め、祈りや教義ば伝承する。御水役は洗礼ば授ける。取次役は祭礼の伝達、いろいろな世話、使い走りタイ。 
 厳しか弾圧の中でもキリシタンたちは祈りだけは忘れんやった。そやケンこそ250年も潜伏しての信仰がつづけられたとやろう。オラショばとなえるとき、声ば出さず口の中でとなえるていう習慣も、秘密の心理から生み出したていわれとる。              

 オラショていうたら、ラテン語の祈りば意味する「オラシオン」が訛ったものゲナ。

 黒崎部落はとなりの出津(しつ)部落といっしょで、旧外海村のキリシタン部落として知られとった。

 キリシタン禁教令が解かれ、明治12年(1879)に長崎からド・ロ神父が外海に来なってからしばらくは、黒崎と出津ば兼任しとんなった。

 ド・ロ神父は明治15年(1882)に出津教会堂ば作り、布教の拠点にしなったほか、明治16年には出津救助院を、明治18年にはいわし網工場(いまのド・ロ神父記念館)ば、そして明治26年(1993)には大野教会堂ば建設するなどして、布教と貧民救済に全力ばかたむけとんなった。

 黒崎にも明治3年(1870)には仮聖堂ができとったとバッテン、明治20年に黒崎小教区として独立した頃から「黒崎にも教会の欲しか」ていう声が高まって、明治30年(1897)やっといまの場所で敷地造成に取りかかった。

左・最近改修がすんだ聖堂の正面。マリア像ば乗せた改修記念の碑が迎えてくれる。

 そして明治32年には造成工事も終わり、新しか教会堂ば建てるばかりになったとやが、なしか知らんバッテン、教会堂建設の話は止まってしもうた。やっと再開されたとが大正7年(1918)ていうケン、建築着工までの20年間、一体何があったとやろうか。謎の20年間タイ。

 ひとつ考えられるとは、大正3年(1914)に地域の指導者で、信望の篤かったド・ロ神父ば失ったこと。地元の落胆は大きかった。ふたつ目は資金難やろう。信者達は芋やカンコロば売って資金ば積み立てとったていう。建築着工時には当時250戸ほどの信徒たちによって一万二干円程の資金の積み立てがやっと出来とったゲナ。

 着工したとは岩永信平神父のとき、工事は後任のバルブ神父に引き継がれ進んでいった。建設の途中では、子供までが煉瓦運びに奉仕するなど、信者が煉瓦ば一つ一つ積み上げるごとして、苦難の末でけあがったていう。竣工は大正9年(1920)。総工費は一万八千円やったゲナ。

 ド・ロ神父が作ろうとして、実際は神父が亡くなったあと6年してでけあがった教会堂は、ド・ロ神父が設計したロマネスク様式の教会で、柱の下の礎は5〜6mの深さにもなっとるとゲナ。

 長崎市内のゴシック建築の教会と比べると、外海の教会は台風や、海からの強風から守るため、基礎ば深うしたり、屋根の傾斜がなだらかなとが特徴タイ。

 施工は地元の大工川原忠蔵父子。川原一家は熱心なカトリック信者で、忠蔵の父親の川原粂吉はプチジャン神父と大浦天主堂ば作った大工ても云われとる。

 そして忠蔵自身はこれまでに、旧馬込教会堂(伊王島)、神ノ島教会堂(長崎市)の建設にも関わってきとったらしか。



右上・山から見ても、海から見ても、見える場所ば選んで建てられた黒崎教会。

右・簡素やけど、天地・左右に伸び伸びとした内部。

 この教会堂は煉瓦造で単層屋根構成、切妻屋根、瓦葺きで全長約40m、会堂幅約14mと出津教会堂より長うて大きか。

 左右側面の窓は両内開きガラス窓と両外開き鎧戸とがセットになっとって、側面の出入口ば中心にして前後に4個ずつ、計8個の窓が並ぶ。

 内部はゴシック調で奥行きのある三廊式。内陣には多角形平面の主祭壇と両脇にも祭壇がある。列柱は角柱で、柱頭に飾りはあるけど簡素なもん。

 天井は出津教会堂とは全く違うて、主廊部、側廊部共に板張り4分割のリブ・ヴォールト(コウモリ天井)、のびやかな円形アーチが会堂ば覆っとる。

 天井の構成は全く違うバッテン、出津教会堂の祭壇へ向かって延びる上への広がりは、この教会においてもそのまま再現されとるケン、ド・ロ神父が設計に関与しなったことの証拠ていわれとる。

左・伸びやかなコウモリ天井(コウモリ傘に似とるケン、コウモリ天井て云うとやが、そのコウモリ傘はコウモリに似とるケン、コウモリ傘。そんならいっそコウモリに似とるケン、コウモリ天井でよかろう。ああ、ややこしか)

左上・平成元年(1989)から聖堂と石垣、駐車場などの改修ば始め、多額の負担と献身的な奉仕で、足かけ10年の継続工事ば平成9年に完成させた。それば記念してのマリア像が正面に立つ。優しそうな顔のマリアやが、実は蛇ば踏みつけて立っとんなると。
左・信者がひとつひとつ、積み上げたていう煉瓦の壁。
上・マリア像とともに、いつでもいっしゃいと迎えてくれる正面入口と上部のステンドグラスが美しい。

 なしマリアが蛇ば踏んどるかていえばクサ、旧約聖書にあるごとアダムとイブは、神様から禁じられていた果実ば取って食べてしもうたとバッテン、これは悪かヘビがイブばそそのかして食べさせたとやったゲナ。

 そやケン、アダムとイブは、楽園ば追放されてしもうたっちゃが、悪者のヘビもクサ「一生地ば這うて、泥にまみれて生きていけ」て、神様から罰ば受けとうとタイ。

 そこでキリスト教では、マリアは善の象徴。ヘビは悪の象徴としてマリアがヘビば踏みつけてとうとゲナ。

  遠藤周作文学館と沈黙の碑

 出津文化村にある「沈黙の碑」には、外海が好きやった遠藤周作の代表作「沈黙」の中の「人間がこんなに哀しいのに主よ、海があまりに碧いのです」ていう言葉が刻まれとった。

場所・長崎県外海町(そとめちょう)は、平成17年1月4日に合併して長崎市になった。黒崎教会に行くとは出津教会といっしょやケン、出津教会の項ば参照しちゃんしゃい。。            取材日 2007.12,20

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