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信仰の島で信徒たちが積んだ赤煉瓦の教会      「長崎県」の目次へ

 相浦港の黒島行き船着き場で、フェリーの船長に
「黒島に渡りたかとバッテン、どっか車置くとこはなかとな」て聞いたら
「狭か港やケン、駐車場やら洒落たもんはなか」ていわれた。

「そんなら、もう車ごと渡してもらわな、しょうがなかタイ。
いくらにするね」て交渉したら
同乗者の往復船賃ばサービスしてくれた。

 計画では歩いて黒島天主堂だけのはずやったとバッテン、車ごと渡ったお陰で、島中が全部回れて結果的によかった。

 
黒島は、佐世保市相浦港から船で西へ約10km。

 九十九島では最大の島バッテン、一周わずかに約12km。島民は減ってしもうて、いまは約600人。年寄りばっかりで、8割がカトリック信徒ていう。

 島名の由来は「黒く見えるケン黒島タイ」ていう説と、「クルス島」が訛って「黒島」になったていう説とがある。

 迫害と食料難から逃げるため、隠れキリシタンが黒島に移ってきたとは禁教令下の寛政12年(1800)ごろやった。彼らはむかしから住んどった仏教徒の集落に遠慮して、村外れの荒れ地ば耕して住みついたていう。

 安住の地ば求めての移住やったとバッテン、ここ黒島でも平戸藩の追求は厳しかった。島でただひとつの禅寺・興禅寺の檀家(だんか)になって、仏教徒のフリばしとったけど、寺のすぐそばが平戸藩の役所やったケン、踏み絵ば強要されたりもしたらしか。
 本堂の柱の陰に木彫りのマリア像ば隠し、仏像ば拝むふりばして、祈りばささげとったていう。

 島の信仰心が絶えんやったとは、幕府や藩の目が届きにくい小島やったことも幸したろうバッテン、こげな信仰の知恵と、希望が彼らば支えとった。

上・寛政元年(1789)に建立された曹洞宗・興禅寺。このすぐそばに、平戸藩の役所があって、踏み絵やらばさせられたていう。
右・始めてミサが行われた出口家の跡に立つ「信仰復活の碑」

 幕末になって元治元年(1864)、長崎に大浦天主堂(フランス寺)が建てられたことば知った黒島の信者20人は、まっさきに命懸けの行動ば起こした。

 有名な長崎の「信者発見」から2ヶ月後のこ と、出口吉太夫、大吉親子たちは、大浦へ渡ってブチジャン神父に自分たちが信者であることば告白し、島で信仰ば守り通してきたことの始終ば告げたていう訳タイ。

 明治5年(1872)には、ポアリエ神父がこっそり黒島に来て、出口家でミサばしとんなる。
 禁教令が解かれる前年のことやった。

 神父はミサば捧げて、潜伏キリシタン達に洗礼ば授け、黒島のカトリックはここでやっと「おおっぴら」でけるごとなった。

 日本全国でキリスト教禁教の高札が下ろされたとは、やっと明治6年(1873)になってからやった。

左・三層構造で丘の上にあるケン、坂の下からやったらそびえ立っとるごと見える。
下・正面もよかバッテン、この教会は後ろのデザインが洒落とってバックシャン。

 目的の黒島天主堂は、船着き場から続く坂道ば登り切った島のほぼ中央にあった。明治33年(1900)にとりかかって、明治35年(1902)に完成させた重厚なれんが造りの、堂々たる天主堂。

 キリシタン禁制が撤廃され、信教の自由ば手にした信徒たちの喜びが、まるで失うた時間ば取り戻すかのごと、献金だけじゃのうして、れんがば一つ一つ焼いて積み上げていったていう奉仕に表わされとった。

 現在地には、明治12年(1879)にフランス人宣教師ペルー神父によって、木造の教会堂がまず建てられとったげなバッテン、明治32年(1897)に主任司祭として赴任したフランス人
マルマン神父の指導と、信徒たちの献金、奉仕により完成したていう。

 建物の完成度が高かとと、その歴史的価値から、平成10年(1998)5月1日、国の重要文化財に指定された。
 長崎県内の教会堂としては大浦天主堂(国宝)に次いで2例目になるとゲナ。現在
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」ば、世界遺産に登録しまっしょうていう運動が、長崎県ば中心として行われとって、2007年1月23日には世界遺産暫定リストへの追加が決まったとタイ。
 もちろん黒島教会も登録候補にあげられとる教会堂のひとつクサ。

 建物の様式はロマネスク様式で、設計はマルマン神父。棟梁は長崎の前山佐吉やった。教会建築の経験がある大工ば集めて、信徒らの手も借りて2年がかりで造り上げた。

 構造は木造煉瓦造り瓦葺き平屋建。コンクリートで基礎ば打ち、一部には黒島名産の黒花崗岩(かこう)が使われた。花崗岩いうたら火成岩の一種で通常は御影石ていわれとる。祭壇の床は有田焼のタイルが張られとったり、フランス製のステンドグラスなど、なかなか豪華な雰囲気がある。

 天主堂の外壁に使われたレンガの総数は40万個。一部は天主堂裏手の赤土ば掘り出してきて、信徒が自分たちで焼いたていわれ、残りは平戸などから仕入れたものていう。

 レンガ造の教会は全国で17棟しかなく、その全てが九州。しかも16棟は長崎県ていうケン、すごかバイ。黒島天主堂はそのうちで4番目に古か建物ゲナ。神父により名づけられた
「御心の聖堂」ていう別名もある。

上・天主堂建設の資材ば荷揚げしたていわれる「名切浜」
右・フランス製のステンドグラスは建設当時のもの。

 
 建物の構造については、層が多かほど屋根が高うなって、造るとい高い技術が必要となるケン、レンガ造りの一般的な教会の多くが単層構造やったとい、黒島天主堂は大浦天主堂(国宝)と同じ3層構造になとると。

 単層の教会が主流やった当時、難しか建築技術の要る三層構造は画期的なもんやったらしか。

 明治、大正時代の教会堂のなかで、規模が大きくて完成度が高うて、フランス製の鐘やステンドグラスが当時のまま残る貴重な教会て云われる訳がここにある。

 その高い天井は、丁度開いたこうもり傘のごたるケン、こうもり天井(リヴ・ヴォールト)ていわれとる。

 マルマン神父は自分で設計もしなるし、手先が器用やったげなケン、説教台やシャンデリア、洗礼台の彫刻は神父自らの手作りやったらしか。

 堂内に飾られとる像の多くは、マルマン神父が資金ば調達するため、フランスに戻ったときに上海から買うてきたもんて云われとる。

 いまは絨毯敷きで礼拝椅子のフロアてなっとるバッテン、昔の資料によるとフロアは畳敷きやったらしか。

 マルマン神父が母国から取り寄せた創建時からの聖鐘は、戦時中、空襲警報ば知らせる鐘として使われたため、軍への供出ば免れたていう話が残っとる。

上・こうもり天井は板の上に木目ば描いて仕上げられとるケン、光沢があって美しか。

上左・神父手作りの説教台と、右は祭壇から説教台へのねじれた階段。

左・いまは礼拝椅子になっとるけど、昔の堂内は畳敷きやった。

左・赤煉瓦と白い板壁、屋根瓦のコントラストから品のよさが感じられる。
下・信者が焼いたていう赤煉瓦がステンドグラスば引き立てとる。

長崎市
大浦天主堂(国宝)
旧羅典神学校(重要文化財)
旧出津救助院(重要文化財)
日本二十六聖人殉教地(史跡)
出津教会(旧外海町)
大野教会(旧外海町)
ド・ロ神父遺跡(旧外海町)
サント・ドミンゴ教会跡

佐世保市
黒島天主堂(重要文化財)

 長崎の教会群とキリスト教関連遺産いうとは、ユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストへ追加掲載が決まった長崎県内にある教会、キリスト教に関わる史跡、文化財の総称で、遺産に含まれる文化財にはなんがあるかていえば・・・

平戸市
田平天主堂(重要文化財)
宝亀教会

南島原市
原城跡(史跡)
日野江城跡(史跡)
吉利支丹墓碑(史跡)

五島市
旧五輪教会堂(重要文化財)
堂崎教会
江上教会

新上五島町
青砂ヶ浦教会(重要文化財)
頭ヶ島教会(重要文化財)

小値賀町
旧野首教会

長崎県外
今村教会(福岡県指定有形文化財)

 場所・佐世保市黒島町。相浦桟橋から黒島旅客船で黒島港まで約50分、港から教会までは徒歩約30分。
黒島島内には公共交通機関はなかケン、そのつもりで。相浦港へは唐津・伊万里経由で国見越えが早かし安か。下って突き当たった佐世保の瀬戸越町信号ば右折約4kmの下本山信号ばこんどは左折。県道11号線ば2.5km走って、川下町の県立大と陸上競技場の間ば左折。県道139号線ば約1.5kmで到着。たっぷり3時間はかかる。船は9:30
取材日 2009.03.21

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