そこで市は明治29年、飲料水ば確保するために、東公園の国有地ば1アール年間1円8銭で借り上げ、50円もの大金(当時)ばかけて井戸ば掘った。
この井戸には井戸守り(看守)がおって、水汲むもんは許可証が 要った。料金は180リットル10銭やったゲナ。これば松原水ていうてた。
鑑札ば持った給水業者が、大八車に桶ば積んで、汲んだ水ば一杯入れてクサ、博多の町ば配達して回りよったゲナ。
これは上水道がでける大正12年まで続いとったらしか。
井戸の跡は今でも東公園に残っとる。
上・いまも東公園に残っとる松原水の井戸跡。(千代町から東公園に入ってすぐ左手の松林にある)
右・高さ45mのダム堰堤上から、真下ばのぞいたところ。
市は「なんとかせないかんバイ」いうて、明治22年、英人技師ウィリアム・バルトンば招いたりして、上水道計画調査ばしたとバッテン、あんまり金の掛かりすぎるいうて市議会が無期延期にしたり、明治35年には篠栗川の水質検査やらもしたとやが、下流の農民が反対したりして、手つかずのまま人口は増えるばっかし。
那珂川からポンプアップする案やら、曲渕からの自然流下方式など、取水方式ばめぐって大論争が繰り広げられた。
予算やら補助金の問題でモメてなかなか計画はまとまらず、おまけに、工事に伴う鉄管・砂利の汚職がウワサされたりしたもんやケン、6代目市長の佐藤平太郎は嫌気がさして辞任したり、おおごとタイ。
やっとこっと計画が本格的に動き出したとは大正3年11月、7代目の井出佐三郎市長が就任してからのことになる。
最終的に決まった曲渕水源地案の基本計画はこうやつた。
「福岡市水道は福岡市全部および接近町村の一部、人口12万人に対し1日1人平均3立方尺半(約5斗4升)の割合にて給水する目的を以て其の規模を定め、将来人口増殖の場合に於て、幾分の増築をなせば人口20万人に給水し得るの組織となれり。
水源は市を距る4里余、室見川の上流福岡県早良郡内野村大字曲淵の渓流にして、同渓流を横断して堰堤を築設し、一大貯水池を造り、それより鉄管を敷設し自然の落差を利用して、筑紫郡八幡村大字平尾および早良郡樋井川村大字下長尾地内の丘上に導水し、ここに浄水場を設けて浄水し、それより更に自然の落差に依り市内に配水するものとす」
そして大正12年、曲淵水源工事とダム、平尾浄水場は、第8代久世庸夫(くせ やすお)市長のときに完成し、天神で導水式ばしなったとゲナ。
ここでまた、なし「曲淵」かていうことやが、これは室見川上流の八丁川がクサ、このあたりで東さい曲がるところに淵があったけん、そうよばれよったと。きわめて簡単な理屈。
結局、話が起きてからでけあがるまで、なんと34年、市長が3人目でやっと福岡市は人口143000人に対し給水ば開始した。なんとまた、むかしもいまも、政治家と官僚のすることの遅かこと。ぐずぐずしよるもんやケン、大正11年には、福岡市内にコレラ発生。患者176名中、死亡79名の犠牲者ば出してしもうた。
てきあがった曲淵だムは、重力式コンクリートダムで、堤体表面は四角に切った花崗岩ば布積みした。堰堤の高さが31.2m。長さ142m。貯水量は142万立方mやった。当時、上水道の権威やった佐世保鎮守府所属の吉村長策海軍技官が設計施工したていう。
ここでまた重力式コンクリートダムちゃあなんかいな、ていうことやが、コンクリートで作られたダムで、貯水池からの水圧ばダムの重量で支える形式のダムのことタイ。ダムとしては最も一般的なものゲナ。
当時は人馬による施工が主体やったケン、レール馬車でセメントなどの資材ば運び、御影石ば積み上げて型枠にした中に粗石ば投げ込むんでコンクリートば打ったゲナ。
このダムのために水没した農家は38戸、田畑15万3千平方m、山林・原野9万5千平方mやったていう。
創設時の水道は、曲渕ダムから現在の植物園の一角にあった平尾浄水場まで自然流下で導水し、ろ過、消毒した後、自然流下方式で配水する方式で、計画給水人口120,000人、 1日当りの給水能力15,000立方mやったゲナ。
上・ダムの堰堤は巾2.7mで長さが160mもある
右上・堰堤の側に管理事務所があって、入口に記念碑がある。これはいちばん新しか改良工事のとき(平成5年、桑原市長の時)に作られたもの。
右下・管理事務所の定礎には「堤の安定」を願う文字があった。
昭和8年の第1回拡張工事で作られたことが読み取れる。
ところが人口増で貯水量が足らんごとなって、昭和6年から9年にかけて第一回拡張工事ば実施、ダムの堤体ば6m嵩上げして37.27m、有効貯水量ば約2倍の 236万8千立方mに増量した。
こんとき日本で初めての、セメントガンによるセメント吹き付けで、堤体の漏水防止工事ば実施しとる。
また昭和53年〜56年にかけては、ダムの有効利用のため、貯水湖に堆積しとった24万立方mの土砂ば浚渫したり、湖底掘削事業などもした。
最近では、平成5年に堤体改良工事ばして、また嵩上げ。そやケン、現在のダムは堤高が45m、堤頂長160.6m、総貯水量約260万立方mにまでなっとると。
浄水場のほうも初めの平尾浄水場が老朽化して、いまは夫婦石浄水場に1日最大4万6千トンが導水されとる。
湖面の越流部はわざと粗い加工になっとって、オーバーフローする水の量によっては、溢水路(いっすいろ)にレースのような転波(てんぱ)模様が発生する。溢水路いうたら、多すぎた水は室見川に落とす水のバイパスで、下から見るとダムに向かって右側につけられとる。
転波いうとは、水が流れ落ちる角度と底面の加工の粗さによって、幾何学模様の波ば作ること。土地ば刺激せんごと、なるべく水勢ば弱めるように施工された苦心の技術。大地ばいたわり見栄えも美しか究極の機能美ていう訳タイ。
水量によって出たり出らんやったりするケン、マンのよかったら見ることがでける。
上・堰堤の突き当たりに水神さんが祀ってあるとバッテン、そこは水道局が「とうせんばっちょ」しとって行かれん。
その下に第一回の拡張工事ばしたとき建てた石碑がある。
なんて書いちゃあとか、難しゅうて分からんやったケン、管理事務所の人に聞いたら「天源豊(天は豊かさのみなもと)」ていうことやった。誰の書かは分からんやったけど、駅長の勘では、第一期拡張工事ばした時の市長久世康夫さんやろう。
左・堰堤の中程、草が一列に生えとる上が後で嵩上げされた部分
ダムの下は、曲渕ダムパークとして平成7年11月に整備・開放された。周囲は自然が残る紅葉の名所。
また、「桜橋」ていう橋が架かっとるくらいやケン、桜の頃は花見客で賑あう。
上・浄水場への導水管が室見川の上流ば渡る落合橋は、昭和8年(1933)に架けられた。
右・「渕泉通」と書かれた切石積みのふさがれた坑口。以前はこれば使うて導水していたのかも知れん。
上・貯水池の水ばオーバーフローさせる越流部。ここから落とされた水は、なだらかな傾斜の溢水路(いっすいろ)によってダムパークば通り、室見川に放流されとる。
右・溢水路に現れた転波(てんぱ)。見とると次々現れる連続模様が面白か。
明治22年 福岡市が市制施行した時の人口は50,847人やったけど、それまで水はどげんしょったかていうと、博多部の井戸が塩分の高うて飲まれんやったケン、千代の松原の砂地から汲んで運びよった。
バッテン、回りに人家が増えてきたもんやケン、ここも家庭の汚水で汚され飲まれんごとなってしもうた。下水施設の不備もあってコレラや赤痢などの伝染病が流行り、人々の生活は脅かされよった。