福岡の市内電車は「第18回九州沖縄8県連合共進会」の開催がきっかけになって、明治42年(1909)に福博電気軌道いうとが設立され、翌年、大学前〜今川橋間ば開通させたとが始まりタイ。
共進会いうとは、九州と沖縄の8県が産業の発展ばはかるため、共同して産物や製品ば集めてクサ、関係者に見て貰う博覧会タイ。今で云うなら見本市。明治15年(1882)に長崎県で開催したとば皮切りに、各県が持ち回りで催しよった。
この共進会、どこであったかていうと、今のアクロス(当時は県庁)からソラリアあたりまでの湿地帯ば埋め立てて開催したとゲナ。出品点数55,735点。半年間で百万人が入ったて云われとる。
市が財政難やったもんやケン、関西で活躍しよった壱岐出身の実業家、松永安左右衛門に話ば持ちかけたところ「よござす、やりまっしょう」いうて福博電気軌道会社ば設立し、9月には着工したとゲナ。
松永安左右衛門いうたら、のちに「電力の鬼」ていわれた大実業家バッテン、その足がかりはこの市電事業やった。九電の創始者もこの人タイ。
県や市も幹線道路作るとい応援ばしたもんの、なんと5ヶ月間で完成させたいうケン、やっぱあこの頃から事業の「鬼」やったとバイ。レールも電車もちゃっかり京都のお古ば、安ゃすう買うてきたとゲナ。電車賃が1銭2厘でこれは日本一安かったていう。
これがもとになって、大正11年(1922)に西新〜姪の浜間がでけたり、渡辺与八郎が循環線やら城南線ば作ったりしよるうちい、合併合併で最後は西日本鉄道に収斂していったとタイ。
永年親しまれてきた市内電車やったとバッテン、昭和50年(1975)地下鉄に後ばゆずって、全線廃止してしもうた。いまも旧博多部では、古か町名ば54枚の石碑にして、各町の角に残してあるバッテン、これは市内電車の敷き石ば利用してハカタランド協議会が建てとんなると。(全リストと解説は博多・福岡地名辞典のはかた旧町名ば見てやんしゃい)
その貫線がここば S カーブして走りよった。駅は九大病院前から箱崎宮の前に繋がっとる道との交差点にあった。いまでもこの道筋は、ほぼ当時のまんま。通称「大学通り」ていいよった。この四つ角は、西が下駄屋さんで、南が用品店。東の角がお菓子屋さんで、北がマーケットになっとった。お菓子屋さんのあとがいまラーメン屋さんになっとって、その店の前に立っとる高っか電柱も、市電当時のもんゲナ。
称名寺
駅から300mほど北にある「称名(しょうみょう)寺」 高さ5.5mの青銅製・釈迦如来座像「旧博多大仏」いうとがあって、これは博多仏師の高田又四郎さんが制作し、明治45年(1912)年に建立されとったとゲナ。
地元では、ただ「大仏っあん」いうて親しまれとったとバッテン、戦争激化で昭和44年、金属供出のため姿ば消した。今では大仏があったことさえ知る人も少なか。
ついせんだって駅長が見に行ったら、台座だけはチャンと残っとった。この寺の境内でもよういたずらしたもんバイ。
妙徳寺
この寺「妙徳禅寺」の興りについては、はっきりはせんバッテン、遅くとも平安と鎌倉時代との境目にあたる建久2年(1191)には開かれとったらしか。
ていうとは、かの日本の臨済宗の開祖て云われとる栄西(えいさい)禅師がクサ、宋から帰国して、聖福寺ば造営しよる時、住んだとったとが、どうもこの寺のごたる。栄西が帰国したとが建久2年タイ。
益軒さんの「筑前国続風土記」によれば
「今山と號す。禪寺也。馬出村にあり。
千光國師榮西宋より歸り、始て住せし所といひ傳へたり。聖福寺營作の間、爰に住せしにや。
馬出村の南に、寺中町と云傳へたる道有。是榮西妙徳寺に在し時、宋より來りし從者の居たりし所と云。
其後榮西聖福寺に移り、從者も今の聖福寺々中に移りしなるへし・・・」てある。
駅長がガキのころ、この寺の墓場はわるそうの舞台やった。戦争ごっこして石塔ば倒したり、夏の夜は幽霊ごっこして、おなごん子ば泣かしたりしよった。いまも墓場は当時のまま残っとった。
最近になって『海の中道大橋』で事故死した(2007年8月25日)3児の地蔵像が開眼した。 地蔵は3児の戒名から「空と風と光の地蔵」て名付けられとった。
むかし、甘茶の日、お釈迦さんにいたずらしよつた場所やった。
西鉄市内電車516号が保存されとる
松永記念館(壱岐市石田町)
明治、大正、昭和にかけて、日本の電力の普及と振興に努め、産業発展の基礎ば築いたていう松永安左エ門。
その生家跡に建っとるとが、松永記念館。
生前愛用したもんやら文書などが展示されとって「日本の電気王」「電力の鬼」て云われた氏の偉業ば知ることがでける。
石畳の閑静な庭には、明治42年に設立した市電の516号が保存されとった。
右・松永記念館 下・須惠歴史民俗資料館
なぁーも、わざわざ壱岐まで行かんでも、須惠町の歴史民俗資料館には、昭和23年(1948)に作られた西鉄市内電車507号が保存されとる。
長さ11m、巾2.4m、高さ4.1m、重さ143tの2軸ボギー車は時速28kmで走りよった。
明治44年にでけた168号は長崎電気軌道でいまでも大事にされとる。
西鉄市内電車の駅
貫線 九大前〜網屋町〜 箱崎〜馬出〜 東車庫前〜大学病院前〜千代町〜蓮池〜呉服町〜土居町〜川端町〜東中洲〜県庁前〜天神〜西鉄グランドホテル前〜大名二丁目〜赤坂門〜 平和台〜大手門〜荒戸一丁目〜西公園〜唐人町〜地行〜今川橋〜西新〜防塁前〜藤崎〜早良口〜室見橋〜愛宕下〜竹の山四丁目〜姪の浜
循環線 明治44年(1911)にでけて 千鳥橋〜千代町 - 福高前〜緑橋〜祇園町〜博多駅前〜駅前四丁目〜住吉〜柳橋〜渡辺通一丁目〜渡辺通二丁目〜渡辺通四丁目〜天神 - 那の津口〜市民会館前〜対馬小路〜石城町〜博多築港前〜千鳥橋
呉服町線 明治43年(1910)にでけて 呉服町〜奥の堂〜祇園町(旧博多駅があった)
城南線 昭和3年(1928)にでけて 渡辺通一丁目〜城東橋〜薬院大通〜南薬院〜動物園入口〜練塀町〜六本松〜草香江〜大濠〜鳥飼〜城西橋〜西新
吉塚線 明治45年(1912)にでけて 千代町 - 妙見〜吉塚駅前
貝塚線 大正13年(1924)にでけて(正式名称は宮地岳線) 千鳥橋〜馬出三丁目〜浜松町〜箱崎浜〜網屋立筋〜箱崎松原〜九大中門〜貝塚
駅長が生まれた家は、この電停から20mほどやったケン、このへんは悪そうの縄張りやった。
電車の線路に耳ばつけて電車の来よる音ば聞いたり、線路の上に5寸釘ば置いといて、電車に何回も轢かせてぺっちゃんこにしたとば、研いで小刀ば作ったりしよった。
いっぺんなぁ、釘轢いた電車が脱線しかかって、運転手さんに追いかけられたりしたこともあった。
もともと馬出ていうところは、読んで字の通り馬の供給地やったていう。一説によれば、秀吉の島津征伐の時、軍馬の調達ば引き受けたらしか。
別の説では、筥崎宮の流鏑馬(やぶさめ)で使う馬ば飼育しとったケン、てもいう。いずれにしても確証はなか。
字がやさしかわりには難読地名で、知らんもんは一発で「まいだし」とは読みきらん。駅長の出身校ば「うまで(馬出)小学校ちゃ、何処にあるとですか」て聞かれたことがある。
右の金魚屋さんから奥が金平部落。この道の突き当たりに称名寺があった。駅長の生家は車が止まっとるところの左で、いまはマンションになっとる。
入社試験ば受けたとき、面接官が駅長の履歴書ば見てクサ「あんたは怖いとこの生まれやねえ」て云うたことがある。あとになって知ったことバッテン、馬出の金平(かねひら)いうたら部落解放同盟の中心やったっタイ。生まれた家が直ぐ近かったもんやケン、小学校の校区も一緒で、今考えてみるとクラスの半分は部落の子やつた。親も先生もそげなことなーも云わんやったケン、差別やらいう意識は持つもんかい。いっしょに悪そうばっかりして回りよつた。
上から称名寺「旧博多大仏の台座」主は溶かされて戦争に行ったまま帰ってはこんやった。
今の妙徳禅寺。むかしはこげんきれいじゃなかった。前からあった日切地蔵堂の側に「3児の地蔵堂」がでけた。
上・南から見た「馬出バス停」と交差点。
下・北から見たバス専用道路と交差点。
左・東から見た交差点。角のらーめん屋さん「旭軒」前に立つ鉄柱は市内電車の架線用。この道は大学病院前につながり、あんまりむかしと変わっとらん。