このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

県境はさんで宮原坑とともに 三池炭鉱の主力やった   「熊本県」の目次へ
 ユネスコ世界遺産登録

 万田坑のシンボル・第二縦坑やぐら。上の滑車から昇降用のゲージがふたつワイヤーで吊り下げられ上げ下ろしした。

 石炭は、日本の産業革命ば支え、近代日本の源となったエネルギーバッテン、荒尾市と大牟田市にまたがって盛んやったとが三池炭鉱。その中心が、当時の技術ば集めて作られた2つの竪坑ば持つ「万田坑(まんだ こう)」やった。

 世界のエネルギーの主役が石炭から石油に代わっていったもんやケン、1800年代の終わりから1900年代前半にかけて日本の産業振興ば支えた万田坑も、1951年には採炭ば止め1997年、ついに閉山となってしもうた。

 万田坑は宮原坑*大牟田市(の南約1.5kmにあった日本最大規模の竪坑。明治30年(1897)から同35年(1902)にかけて作られた第一竪坑と、明治31年(1898)から同41年(1908)にかけて作られた第二竪坑とからなる。三井が総力ば挙げて整備した主力坑やった。

 大正から昭和にかけて、施設の電化ば進めるやらして機械も充実し、出炭量も増えていった。大正2年(1913)〜昭和6年(1931)の19年間に930万8340トン(年平均66万トン)、昭和2年(1927)〜20年(1945)の19年間に1643万126トン(年平均86万トン)ば出炭しとった記録が残っとる。

 昭和26年(1951)、採炭効率が低下したもんやケン、採炭ば中止して第一竪坑の諸施設は解体されてしもうた。しかし、その後も第二竪坑のほうは揚水やら坑内管理のため、平成9年(1997)まで施設が維持保存されとった。

 いまは、第二竪坑・ヤグラ、巻揚機室、倉庫、ポンプ室、安全燈室、浴室、事務所、山ノ神祭祀施設などが保存されとって、日本の近代化に大きな役割を果たした明治・大正期における最大級の施設で、当時の優れた炭鉱の技術を伝えとるいうことで、平成10年(1998)5月1日、国の重要文化財に指定された。そして今年(2015)ついに「明治日本の産業革命遺産」として、ユネスコの世界遺産に登録された。

 また第一竪坑跡、汽罐場跡、坑内トロッコ軌条、職場、プラットホームなどが遺存し、炭鉱のシステム*採炭、選炭、運炭(が分かるため、炭鉱施設としてはわが国では唯一、平成12年(2000)1月19日、国史跡として指定された。

 平成20・21年(2008・2009)で、第二竪坑ヤグラや巻揚機室などの保存修理ばして、平成22年(2010)4月から、一般公開も始まっとる。

 
保存されとるレンガ造りの建物自体見ごたえがあるバッテン、炭鉱マンたちが地底と地上ば行き来した坑口やら、大きな機械が残されとる機械室なども迫力満点。

 1908年に完成した第二竪坑櫓は、ケージ(昇降用エレベーター)が吊り下げられ、炭鉱マンの昇降や資材の運搬に使われとった。

 炭鉱が稼働しとった頃は深さ264mもある竪穴があったていう。炭鉱マン達が当時使いよった木製のロッカーやヘルメットなども無造作に置かれたままで、全盛期の賑わいがしのばれる。


→ 青い点線があとで説明する三池炭鉱専用鉄道の敷跡。石炭積み出しの三池港とつながっとった。

↑ 万田坑の全景。右が第二竪坑やぐらと巻き揚げ室
左が変電所。その先に第一竪坑があった


← 全盛期の正門跡。ここば入って右手にあった脱衣所で着替えてから構内へ。
 奥に見えとるサクラの木の下が今の正門。

          万田炭鉱館
 近くにある「万田坑ステーション」にはたくさんの資料や写真が展示され、炭鉱マンや技術者たちが苦楽ばともにしとった頃の喜びが伝わってくる。
→ 廃坑以来これまでは、国の重要文化財とはいえ、おとずれる人もなかった炭鉱遺跡。
 市も維持管理の予算もつけきらず、ほったらかしたままやったとが、世界遺産に決定した途端、観光客は押し寄せるわ、マスコミは取材に来るわの大人気。
 なんとこれまでの6倍も観光客が来よるゲナ。
 人間チャ勝手なもんやねぇ。急に手のひら返したゴト、広告は出すわ、ポスターは作るわ、ちやほやしだして大事に扱うゴトなってきた。20年間もほったらかされとった建物たちがいいよった。

 「日本のために石炭ば掘りに
掘っといて、こげんほったらかされとったら、世界遺産ぐらいじゃ引き合わん」

三池炭鉱専用鉄道
三池炭鉱専用鉄道敷は、官営三池炭鉱時代の明治11年(1878)に馬車鉄道として使われ始めた。

 明治24年(1891)には大牟田川河口〜大浦坑間が開通して蒸気機関車が使われ始めたら、線路は次々と延ばされ勝立坑やら宮原坑、万田坑などば通って、三池港まで線路が敷かれるようになった。

 明治38年(1905)には現在の専用鉄道敷の全体の形がほぼ出来上がったていう。

 鉄道は、その後も支線ば増やしたり、路線ば複線にしたり、蒸気機関車から電気機関車へ更新したりして、一時は地方鉄道として旅客輸送も行われとったげなバッテン、石炭産業の衰退とともに縮小され、平成9年(1997)の閉山時には、とうとう路線も廃止されてしもうた。

 何に使いよったかていうと、 当初は三池炭鉱から掘り出された石炭やら、炭鉱で使用する資材の運搬やった。後には工場で使う原材料やら製品ば輸送しよった。

 最盛期には、路線の総延長が150kmにもおよび、通勤者ば運ぶ客車の運行もしとったケン、沿線には人員乗降用の駅も設置されとったていう。

 いまはどうなっとるかていうと、線路こそ撤去されとるバッテン、一部には閉山時の枕木なんかもそのまま残されとる。

  はじめは「万田駅」やった荒尾駅

 開業時の地名は玉名郡荒尾村(のちの荒尾町)やったとバッテン、三井三池炭鉱の主力坑やった万田坑から採掘された石炭の取り扱い駅として開業したもんやケン、はじめは「万田駅」て命名されとった。

 その後の1942年(昭和17年)に荒尾町と周辺の村とが市制施行して「荒尾市」となったケン、駅名も現在の「荒尾駅」に改称された。

 場所・熊本県荒尾市宮内出目390番地。九州自動車道の南関ICば下りて、県道10号線ば西へ約8Kmで国道208号線「元村」の信号。左折して国道208号線ば鹿児島島本線に沿うて南下。大牟田市内ば抜け、9Kmの「荒尾市万田西」信号から約20m先の信号ば左折。東へ約1Kmで到着。右はグリーランドリゾートゴルフ場。  取材日 2008.04.18

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